第60回検定の申し込みがはじまりました。今回のメインビジュアルで取り上げたのは、『フィレンツェの歴史地区』です。ルネサンスの文化や建築を今に伝える街で、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ボッティチェリなど多くの芸術家が活躍しました。
フィレンツェには数多くの有名な見どころがあります。ブルネッレスキが設計した巨大なドーム天井をもつサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂はじめ、街の中心地に立つミケランジェロのダヴィデ像やフィレンツェを支配したメディチ家の美術品を集めたウツィフィ美術館、宝石店が軒を連ねるヴェッキオ橋など枚挙にいとまがありません。
そんなフィレンツェで店先にある“小さな窓”が注目を集めているのはご存じでしょうか?店の外壁に開けられた窓は縦30センチ、横20センチほどの窓です。これは「ワインの小窓」(Buchette del vino)といいます。もともとはその名の通り、ワインを受け渡す用途でつくられました。500年ほどの歴史のある窓で、一時は使われていないものも多かったといいます。しかし新型コロナ・ウイルスの流行以降は、ソーシャル・ディスタンスを保って商品の受け渡しをできると注目が集まり、現在は観光資源としても活用されています。
メディチ家のフィレンツェ支配を確立したコジモ・ディ・メディチは、地主に対して、所有するブドウ畑の収穫からつくったワインの余りを、街の邸宅で少量ずつ、直接販売することを許しました。地主が販売を許されていたのは自家製造のワインのみで、1回あたり1.4リットルまででした。この直売によって中間業者が排除され、庶民は店頭よりも安価にワインを買えるようになったといいます。
1630年代にフィレンツェではペストが猛威をふるった時代に、「ワインの小窓」は病気の防波堤となりました。もともとは購入者が持参した瓶を受け取り、そこにワインを入れて販売するという方法をとっていましたが、ペストが流行すると瓶に触って病気に感染することがないように、窓にワインを注ぐための注ぎ口を設置し、購入者はそこからワインを受け取ったといいます。
ルネサンス時代のフィレンツェは、水の汚染がひどく、飲むと病気にかかる可能性が高かったため、ワインは必需品でした。そのためどんなにペストがまん延してもワイン売買はやめるわけにいかず、「ワインの小窓」はとても役立ちました。
「ワインの小窓」は1700年代にピークを迎えます。当時フィレンツェには数百もの「ワインの小窓」があったといいます。しかし、時がたつにつれ使われなくなり廃れていき、第二次世界大戦の際に壊されたものもありました。現在「ワインの小窓」はトスカーナ地方に170カ所以上残っているとされ、コロナ流行後はレストランやバー、ジェラート店などの10カ所以上で復活したといいます。
フィレンツェを訪れた際は「ワインの小窓」を探してみて、その歴史に思いをはせながら、グラスをかたむけるのも良いかもしれません。
フィレンツェの歴史地区
登録基準:(i)(ii)(iii)(iv)(vi)
登録年:1982年登録/2015年、2021年、2023年範囲変更
登録区分:文化遺産
第59回世界遺産検定の申込みがはじまりました。今回のパンフレットの表紙を飾るのは、シーギリヤ・ロックで有名な『シーギリヤの古代都市』です。この高さ200mの岩山の頂上に壮麗な宮殿や庭園のある都が築かれたという、ロマンあふれる世界遺産です。さらに、この空中都市を5世紀に築いたカッサパ1世は、王である父を殺害し、弟を追放し、ようやく王位についたが、最後は弟との争いに敗れて自害する・・・という非常にドラマチックな生涯を送った人物でもあります。
まず、シーギリヤの位置を確認しましょう。インド洋に浮かぶ島国スリランカの中央部に位置しています。シーギリヤには鉄道が引かれておらず、スリランカ最大の都市コロンボからはバスの乗り継ぎでのアクセスが一般的で、4時間半ほどかかります。バスの運賃は日本円にして500円程度(2024年12月時点の為替レート)とかなりリーズナブルです。
シーギリヤ・ロックは頂上まで上ることができます。頂上までの階段は約1,200段あり、ところどころに見どころがあります。
まず山の麓にあるのがアジア最古の庭園の1つとされる「水の庭園」の跡です。カッサパ1世が世界中から集められた500人の愛妃達と沐浴を楽しんだと言われる庭園です。上下水道や噴水を備えており、高い治水技術の存在を示す庭園です。この高度な技術が発達した背景には、紀元前から灌漑池を造り続けてきたスリランカの農業水利技術があると考えられています。
階段を上っていき、山の中腹にあるのが、かの有名な「シーギリヤ・レディー」の壁画です。華やかな装身具で身を飾った半裸の「天女」たちが描かれていて、これはカッサパ1世の宮殿で暮らす女性たちをモデルに描かれたと考えられています。かつては500体ほどの壁画があったとされますが、大部分は風化し、現在残っているのは19世紀末に発見された21体のみです。500体の壁画が広がっていた時は、さぞ壮観だったでしょう。
階段をさらに上っていくと「獅子の門」に到着します。ライオンの像は、現在は前足部分しか残っていませんが、かつては岩の中腹に像の頭が置かれ、口の中から階段が伸びていたと考えられています。「獅子の山」を意味するシーギリヤの名前は、この「獅子の門」に由来します。
「獅子の門」の階段が頂上まで続く最後の最も長い階段です。これを上りきると視界が四方に開け、1万5000㎡の広大な宮殿跡が広がっています。そこではカッサパ1世の玉座や王妃達の部屋、沐浴場、舞踏会場など、往時の豪奢な暮らしを伝える遺構を見ることができます。父を殺し、弟を追放し、王位を手にしたカッサパ1世が、この岩山の上の「空中都市」でどのような気持ちで暮らしたのでしょうか? 現地に行ったら、そんなことに思いをはせてみても良いかもしれません。
さて、シーギリヤ・ロックの入場料は、日本円で5,400円(2024年12月時点の為替レート)ほどします。バスに比べると少し高い気もしますが、この入場料の中にはシーギリヤ・ロックの入山料にくわえてシーギリヤ博物館の入場料金も含まれています。こちらも忘れずに見学するようにしましょう。
このシーギリヤ博物館は、日本のODAでJICAにより整備されたものです。博物館の目玉の展示が、復元されたシーギリヤ・ロックと水の庭園の模型です。栄えていた時代のシーギリヤの姿を見ることができます。さらに、「シーギリヤ・レディー」の壁画のレプリカもあります。本物の「シーギリヤ・レディー」は壁画保護のため現在は写真撮影が禁止されていますが、ここでは撮影できます。
この博物館では、日本人の専門家の支援によって、スリランカ人学芸員のスキルアップが行われているそうです。博物館に行ったら、そんなところにも注目して、見てまわるのも面白いかもしれません。
シーギリヤの古代都市
登録基準:(ii)(iii)(iv)
登録年:1982年登録
登録区分:文化遺産
12月に行われる第58回世界遺産検定のメインビジュアルはアメリカ合衆国の『自由の女神像』です。ニューヨークのリバティ島に立つ、アメリカを象徴する世界遺産で、正式名称は「世界を照らす自由」。左手にはアメリカの独立記念日が刻まれた独立宣言書を持ち、 足元には引きちぎられた鎖と足枷があります。
自由の女神像があるリバティ島に2019年にミュージアムがオープンしました。「自由の女神博物館」です。このミュージアムの展示の目玉は、1886年から1986年の100年間使われていた自由の女神の初代トーチです。じつは自由の女神像は、20世紀のはじめまでは灯台として実用的な役割も果たしていました。そのため、このトーチの部分は巨大なランプになっており、ここからの灯りが闇夜のハドソン川河口を照らしていました。かつてヨーロッパから船ではるばるアメリカへ渡ってきた人々は、自由の女神像から放たれる光を見て、強烈な印象を受けたことでしょう。
博物館では自由の女神像の制作過程が詳しく紹介されています。自由の女神像は主に3人の人物によって造られました。ミュージアムで最も大きく紹介されているのが、設計を担ったフランス人彫刻家のフレデリック・バルトルディです。よく知られていますが、自由の女神像はアメリカで造られたものではありません。フランスで制作され、それが200以上に分解して船でアメリカまで運ばれ、組み立てられました。アメリカ独立100周年を祝い、フランスから贈り物として届けられたのです。
バルトルディが自由の女神像の制作のオファーを受けたのは、彼が31歳のときでした。バルトルディが自由の女神像のデザインを考える中で最も影響を受けたのが、パリのルーヴル美術館に飾られているウジェーヌ・ドラクロワの傑作『民衆を導く自由』でした。たしかにフランス国旗を手に持って、民衆を導く画面中央の女性(フランスを象徴する女性像マリアンヌ)の姿は、たいまつを掲げた自由の女神像とよく似ています。ちなみに、自由の女神像の顔はバルトルディの母親がモデルとなったと言われます。
自由の女神像の構造設計を担当したのが、エッフェル塔で有名なギュスターヴ・エッフェルでした。自由の女神像の中に入ってみるとよくわかりますが、内部はエッフェル塔と同じように鋼鉄の骨組みでできています。銅板を組み合わせて造られた女神像は100トン以上の重さがあったため、どのようにしてこれを支えるかが、自由の女神像を建設するにあたったて最も大きな問題でした。エッフェルは当時の最新の技術を使って、この問題をクリアしたのです。
当初、自由の女神像の構造設計は、カルカッソンヌの城塞*の修復などを手掛けたヴィオレ・ル・デュクが担っていました。女神像の銅板を貼り合わせた設計は、デュクがバルトルディに提言したといいます。しかし、制作の途中でデュクが亡くなってしまったため、その後釜にエッフェルがついたのです。デュクが自由の女神像の構造設計を担当していたら、おそらく現在とは違った形の内部構造になったはずです。
自由の女神像の建設にアメリカ人は関わっていなかったかというと、そうではありません。高さ40mを超す巨大な台座を造ったのが、アメリカ人建築家のリチャード・ハントです。リチャード・ハントは19世紀のアメリカを代表する建築家で、ニューヨークのマンハッタンにあるメトロポリタン美術館のファサードを設計した人物です。古典的な柱を用いた重厚なデザインなど、メトロポリタン美術館と自由の女神像の台座は似たところがあります。
自由の女神像の歴史を伝える展示スペースは、元々この台座の中にありましたが、2001年9・11のテロ事件以来、台座や王冠への入場は厳しく制限されたため、新しいミュージアムが建設されました。
ニューヨークに行ったら自由の女神像を訪れる人は多いと思います。ぜひその際はリバティ島内にあるミュージアムにも足を運び、自由の女神像が建造された背景について学んでみて下さい。きっと自由の女神像をより深く見ることができますよ。
*『カルカッソンヌの歴史的城塞都市』として世界遺産に登録
(文:世界遺産検定事務局 大澤暁)
自由の女神像
登録基準:(i)(vi)
登録年:1984年登録
登録区分:文化遺産
9月の「第57回世界遺産検定」のメインビジュアルはエジプトの世界遺産『メンフィスのピラミッド地帯』です。この遺産は何と言ってもギザの3大ピラミッドが有名ですね。そしてピラミッドを守るように近くに築かれた、ライオンの身体と人間の顔を持ったスフィンクスの像もよく知られています。スフィンクスの像は、全長73.5m、全高20m、全幅19m。一枚岩からの彫り出された像としては世界最大のものだと言われています(※場所によっては別の場所から運ばれてきた石灰岩が用いられており、完全な一枚岩の像ではありません)。今回のメインビジュアルは、ピラミッドを背景に悠然とたたずむスフィンクスの写真を使っています。
この3大ピラミッドやスフィンクスからわずか数キロ離れたギザ郊外に、「大エジプト博物館」という世界最大級の博物館が築かれたのはご存じでしょうか? もともとエジプトには首都カイロに1903年に開館した国立のエジプト考古学博物館がありました。この博物館が展示・収蔵スペースの不足といった課題を抱えていたため、新たに「大エジプト博物館」を築くことになりました。2024年中に全面開業する予定で、現在そのための準備が進められています。
大エジプト博物館の概要を見ていきましょう。敷地面積は48万平方メートルで東京ドーム10個分ほどの大きさです。展示面積は約5万平方メートルで、12の展示ホールと10万点を超える所蔵品があります。1つの文明を扱う博物館としては建物の総面積も展示面積も世界最大級だといいます。すべて見てまわるのに数日かかりそうな規模ですね。
大エジプト博物館は現在(2024年7月時点)はまだグランドオープンしていませんが、プレオープンという形で公式サイトから申し込みツアーで中には入ることができます。ピラミッド型の入口をくぐるとロビーには巨大なラメセス2世の像が出迎えてくれます。この博物館の最大の見どころは、1922年に王家の谷(『古代都市テーベと墓地遺跡』として世界遺産に登録)で発見された5,000点を超えるツタンカーメンの遺物です。有名な黄金マスクや3つの棺が一堂に会して展示される予定です。また、『メンフィスのピラミッド地帯』にあるクフ王のピラミッドの南側から見つかった2隻の「太陽の船」も展示される予定になっています。
このエジプトを代表する至宝が集まる「大エジプト博物館」ですが、その設立に大きな力を貸しているのが日本です。総工費費約1,400億円のうち6割にあたる約842億円が日本の円借款(政府開発援助(ODA)の一環で、通常の民間金融機関の融資より低い金利で長期の資金を開発途上国に貸し付ける制度)でまかなわれています。また、国際協力として大エジプト博物館の収蔵品の保存の技術支援も行っており、72点のツタンカーメン王の財宝をエジプト人と一緒に日本人技術者が保存修復しました。さらに保存修復を担う人財の育成も2000年代から20年ほど行われています。
こうしたエジプトと日本の強い協力関係の中で造られた大エジプト博物館。「目玉」であるツタンカーメンの遺物の展示室には、アラビア語と英語に加えて日本語の解説もあるそうです。ぜひグランドオープンしたら現地を訪れてみたいですね。
(文:世界遺産検定事務局 大澤暁)
メンフィスのピラミッド地帯
登録基準:(i)(iii)(vi)
登録年:1979年登録
登録区分:文化遺産
次回の更新は2024年9月を予定しています。
2024年7月の世界遺産検定と年間を通じてのメインビジュアルは『パリのセーヌ河岸』に決定しました。フランスのパリでは今年7月~9月までオリンピック・パラリンピックが開催されます。注目したいのが、今回は開会式がいつものようにスタジアムで行われるのではなくて、スタジアムを飛び出して「セーヌ川」で選手たちのパレードが行われるという点です。パリ中心部を流れるセーヌ川は世界遺産に登録されています。つまり、「世界遺産」を舞台にオリンピックのパレードが行われるのです。
具体的にセーヌ川で行われるパリオリンピック開会式の水上パレードの中身を見ていきましょう。開会式の7月26日、選手たちは船に乗り、川の流れに沿って東から西へ6kmにわたってパレードします。出発点となるのはオステリッツ橋です。オステリッツ橋付近は世界遺産の登録エリアに含まれていませんが、そこから川を下り、世界遺産エリアに突入します。まず見えてくるのは16~17世紀に造られた美しい館が並ぶサン・ルイ島です。ここにはかつて哲学者のヴォルテールや詩人のボードレールなどが住んでいました。
続いて、水上パレードの選手たちの目に入ってくるのがシテ島です。ここにはあの「ノートル・ダム大聖堂」があります。2019年4月15日の夕方に発生した大規模火災は世界中にショックを与えました。火災によって崩落した尖塔屋根などは、現在修復作業が進められていて、オリンピックの開会式までには修復が完了する予定です。
さらに進むと「サント・シャペル」が見えてきます。ルイ9世が収集した聖遺物を納めるために建設を命じ、13世紀中頃に完成したゴシック建築の傑作の1つです。赤と青を基調としたパリ最古のステンドグラスが有名で、光が織りなす美しさから「聖なる宝石箱」と呼ばれています。2024年度の世界遺産検定の年間ポスターにはステンドグラスの写真が1枚入っています。
シテ島を抜けると右手に見えてくるのが「ルーヴル美術館」ですが、その前に注目して欲しいのが、シテ島の先端にかかる橋「ポンヌフ」です。石造りの12の半円状アーチからなる橋で、「ポンヌフ」とはフランス語で「新しい橋」という意味ですが、じつは1606年にアンリ4世によって造られたパリに現存する最も古い橋です。一説には、パリで最初の石造の橋だったため、「新しい橋」という名がつけられたと言われます。彫刻が特徴的で、マスカロンと呼ばれる怪物の顔面像が設置されているので、ぜひ注目して見てみて下さい。
オリンピック開会式パレードで選手たちは、「ルーヴル美術館」を通り「テュイルリー庭園」や「オルセー美術館」抜け、「コンコルド広場」や「アンヴァリッド」、「グラン・パレ」といった競技会場の横を通過していく予定です。これらは全て世界遺産に登録されています。 そして、「エッフェル塔」の足元の「イエナ橋」まで水上を進み、「トロカデロ広場」でのセレモニーでパレードはフィナーレを迎えます。93,930 m²の広大な緑地と、エッフェル塔を見晴らす見事なパノラマ風景が素晴らしい広場で、ここにある1937年のパリ万国博覧会のために建てられた「シャイヨー宮」も見事な建物です。
『パリのセーヌ河岸』として世界遺産に登録されている西の端が「トロカデロ広場」と「エッフェル塔」です。つまり今度のパリオリンピックの開会式パレードでは、東橋から西橋まで『パリのセーヌ河岸』の建物と景観をあますことなく楽しむことができるのです。演出や選手たちの颯爽とした姿とともに、パリの世界遺産の素晴らしさも、オリンピックの開会式パレードでは注目したいですね。
(文:世界遺産検定事務局 大澤暁)
パリのセーヌ河岸
登録基準:(i)(ii)(iv)
登録年:1991年登録
登録区分:文化遺産
次回の更新は2024年6月を予定しています。
今回取り上げるのは55回検定のメインビジュアルになっている『カナディアン・ロッキー山脈国立公園群』です。皆さんは「カナディアン・ロッキー」と聞くと、どういった風景を思い起こされるでしょうか? 「カナディアン・ロッキーの宝石」とも謳われるルイーズ湖やペイトー湖などの氷河湖や、険しい山々が青い空に向かって連なるテンピークス、北半球最大の約325km²にわたって広がるコロンビア大氷原やそこから流れ出すアサバスカ氷河、グリズリーやヘラジカなど貴重な野生動物が生きる針葉樹林の森、カンブリア紀の化石が数多く発見されるパージェス頁岩など、さまざまな風景が浮かび上がってくるのではないでしょうか?
『カナディアン・ロッキー山脈国立公園群』を構成するのが、バンフ、ジャスパー、ヨーホー、クートネーの4つの国立公園と、ハンバー、マウント・アシニボイン、マウント・ロブソンの3つの州立公園です。バンフ国立公園はカナダでもっとも歴史のある国立公園で、1887年に指定されています。19世紀末に山脈西部に大陸横断鉄道が敷設されたことや、温泉が発見されたことが契機となりました。このバンフ国立公園の世界遺産の登録エリアに歴史的なホテルがあります。フェアモント・バンフ・スプリングスです。古城のような外観は、周囲の美しい自然とも、見事に調和しています。ホテルの名前は、近隣の山のさまざまな場所から湧き出る天然温泉にちなんで名付けられました。
このホテルはバンフ国立公園が誕生して間もない1888 年に開業しました。現在のホテルの敷地はいくつかの建物で構成されており、本館は11階建てセンタータワー(ウォルター・ペインター設計、1914年)と、北棟と南棟(ジョン・オーロック設計、北棟1927年、南棟1928年)で構成されています。ホテルのお城のような外観はフランスのロワール渓谷の城(『ロワール渓谷:シュリー・シュル・ロワールからシャロンヌまで』として世界遺産に登録)のデザイン要素が取り入れられています。ホテルの建物は1988年にカナダ国定史跡に指定されました。
ホテルの内装には石や木材が使われており、天井には漆喰細工があります。シャンデリアやテーブル、椅子、ソファーなどの調度品もひとつひとつが落ち着いた風合いがあり、「カナディアン・ロッキー」の自然の中を散策した後、疲れを心地よく癒してくれそうな優美な内部空間です。もちろんホテルでは天然温泉も楽しめます。
このフェアモント・バンフ・スプリングスですが、じつはカナダ・パシフィック鉄道という鉄道会社によってつくられたものです。鉄道を使って多くの観光客にバンフ国立公園に足を運んでもらおうと建設しました。
カナダへ行ったことがある人はご存じかもしれませんが、こうした鉄道会社が建設したホテルがカナダの各地にあり、それが地域のランドマークとなっています。有名なところだと、世界遺産にも登録されている『ケベック旧市街の歴史地区』にあるシャトー・フロントナックです。
ケベックのシャトー・フロントナックもカナダ・パシフィック鉄道によって建設され、1893年に開業しました。こちらもバンフ・スプリングス・ホテルと同じように城のようなデザインです。急勾配の屋根や巨大な円形および多角形の塔と塔、華やかな切妻とドーマーが特徴的な美しいホテルです。1981 年にカナダの国定史跡に指定されています。
カナダの鉄道会社がつくったホテルの多くはお城のような形で建てられています。その結果、お城のような建物はカナダに独特な建築様式「シャトー様式」として知られるようになりました。1929に開業したトロントのロイヤル・ヨークはシャトー様式の鉄道ホテルの最大のものです。カナダを訪ねる機会があったら、街ごとの鉄道ホテルに注目してみるのも面白いかもしれません。
(文:世界遺産検定事務局 大澤暁)
カナディアン・ロッキー山脈国立公園群
登録基準:(vii)(viii)
登録年:1984年登録、1990年範囲拡大
登録区分:自然遺産
次回の更新は2024年3月を予定しています。
第54回世界遺産検定の申込みが始まりました。今回の検定のメインビジュアルはイタリアの世界遺産『アルベロベッロのトゥルッリ』(1996年登録、文化遺産)です。この遺産のことはよく知っている人も多いと思います。白い漆喰の壁と、円錐形の石屋根をもつ、特徴的な住宅(トゥルッリ)が立ち並ぶ世界遺産です。アルベロベッロの旧市街には今でも1,000軒以上のトゥルッリがあり、現役の住居やホテルとして使われています。
アルベロベッロのあるイタリア南部のプーリア州では石灰岩の土壌が広がっていて、古くから石灰岩を用いた独自の建築が発達してきました。トゥルッリは16~17世紀に、開拓農民用の住居としてつくられました。壁は石灰岩の切り石を積み重ね、漆喰で白く塗り固められています。円錐状の屋根に部屋は一つだけで、この一部屋分をトゥルッロ(複数形がトゥルッリ)といいます。その部屋が集まって一軒の家になっています。
アルベロベッロを含む南イタリアのプーリア州で先日(2023年7月)、イタリアを代表する世界的なラグジュアリーファッションブランドのドルチェ&ガッバーナが新作コレクションの発表会を行いました。アルベロベッロの街も、もちろん会場の一つとして使用されました。最新のファッションに身を包んだモデルの人たちが、おとぎ話に出てくるようなとんがり屋根の家々の間を歩き抜ける様子はとても美しく、興味深いイベントとして成功していたと思います。何百年も前につくられた街並みを、現代においてこういう形で活用することもできるという良い事例です。
日本でも世界遺産をファッションイベントに活用しようという動きが進んでいます。『富岡製糸場と絹産業遺産群』に含まれる富岡製糸場では、今年の10月中旬に国内初の世界遺産での本格的なファッションショーが開催される予定です。これは観光庁の「観光再始動事業」の一つとして行うもので、国宝に指定されている西置繭所(にしおきまゆじょ)の多目的ホールなどを使うことを検討しています。
ご存じのように、富岡製糸場は明治政府が1872年に設立した官営の器械製糸場です。フランスの技術者ポール・ブリュナによって伝えられた器械製糸技術が、富岡の地で日本の伝統技術との融合し、独自の改良も加えられていきました。その結果、富岡製糸場の製糸技術は1873年のウィーン万国博覧会で入選するなど国際的な評価を受けるに至り、フランスやイタリアなどのシルク先進国で富岡の生糸が使われるようになりました。そうした歴史もあるので、ファッションショーを行うのにぴったりな場所だと思います。
世界遺産条約では「世界遺産に社会生活の中で機能・役割を与えるべき」という記述があります。ただ守るだけでなく、現代の生活の中でどう生かしていくのか、ということが非常に重要です。世界遺産の生かし方の一つとして、こうしたイベントなどでの活用というのは今後も増えていきそうです。
(文:世界遺産検定事務局 大澤暁)
アルベロベッロのトゥルッリ
登録基準:(iii)(iv)(v)
登録年:1996
登録区分:文化遺産
次回の更新は2023年12月を予定しています。
第53回世界遺産検定の申込受付がはじまりました。今回のメインビジュアル(写真上)は細やかで美しい装飾のされたモスクですが、どこの何というモスクかわかりますか? 答えはトルコ共和国の『イスタンブルの歴史地区』に含まれる「スルタンアフメト・モスク」、通称「ブルーモスク」です。こちらは17世紀にアフメト1世によって建造され、世界で最も美しいモスクとも称されます。天井や壁の装飾のブルーがとても鮮やかで綺麗ですね。
では、「ブルーモスク」の装飾はどのようにつくられているのでしょうか? 近づいて見てみると、タイルを貼り合わせてつくられていることがわかります。トルコの伝統的な工法でつくられたこのタイルを「イズニックタイル」といいます。ブルーモスクの装飾には、2万枚以上のイズニックタイルが使われているといいます。
ブルーモスクのイズニックタイルには、いろいろな異なるチューリップの模様が描かれているのが特徴です。チューリップはトルコ原産の花で、トルコ語では「ラーレ」と言います。そのアラビア語を組みかえると、イスラム教で万物を支配する唯一神「アッラー」となることから、神と関係の深い花だと考えられてきました。そのため宗教的なシンボルとしてトルコで崇められています。ぜひ現地に行った際はイズニックタイルのさまざまなチューリップ模様を探してみて下さい。
イズニックタイルはトルコ北西部に位置するブルサ県のイズニックで生産されたことから、その名がついています。イズニックはかつて「ニカイア(ニケ―ア)」と呼ばれた都市です。ローマ帝国皇帝のコンスタンティヌス1世がキリスト教の教義を審議するために開催した「ニケ―ア公会議」が開かれた場所としてよく知られています。イズニックは14世紀頃から陶器やタイルの生産で繁栄しました。そうした歴史的、文化的に重要な街であることから、トルコの世界遺産の暫定リストにも載っています。
イズニックの陶器やタイルは、原材料となる土にさらに白い土を塗り、下絵を描いた上に透明の釉薬を塗ってつくられます。イズニックタイルの第一期と位置づけられる15世紀~16世紀半ばには、紺や青、緑、薄紫を基調にしたシンプルな彩色のタイルがつくられました。さらに第二期と位置づけられる16世紀半ば~17世紀半ばには赤も加わり、色彩が豊かになっていきました。イズニックで生産される陶器やタイルは、オスマン帝国の宮廷で重用され、宮殿やモスクにも多用されました。
世界遺産『イスタンブルの歴史地区』では「ブルーモスク」以外にも様々な建物でイズニックタイルの装飾を見ることができます。メフメト2世によって15世紀半ばに建造された「トプカプ宮殿」は、歴代のスルタンが改築を加えながら居住したため、部屋ごとに異なったイズニックタイルの装飾を見ることができます。また、スレイマン1世が建設を命じた「スレイマニエ・モスク」では、華美な「ブルーモスク」や「トプカプ宮殿」とは違い、きりっと抑制のきいたイズニックタイルでの装飾が見どころです。
その他にもイスタンブルを歩いていると、さまざまな場所でイズニックタイルと出会うことがあるはずです。タイルに注目しながら街を見て回るのも面白いかもしれません。ぜひイスタンブルを訪ねた際はタイルにご注目下さい。
(文:世界遺産検定事務局 大澤暁)
イスタンブルの歴史地区
登録基準:(i)(ii)(iii)(iv)
登録年:1985/2017範囲変更
登録区分:文化遺産
次回の更新は2023年8月を予定しています。
今回取り上げるのは、第52回世界遺産検定のメインビジュアルにもなっている『ヴァティカン市国』です。ヴァティカン市国はローマ市内にある世界最小の独立国です。その面積は0.44㎢で東京ディズニーランドよりも小さいというから驚きです。そして、国がそのまま全て世界遺産に登録されています。国全体が世界遺産となっている例は他にはありません。
ヴァティカン市国はローマ教皇を国家元首とする国でもあります。国の面積は最小ですが、世界のカトリック教会の頂点に立ち、キリスト教徒にとって最も神聖な場所のひとつです。ヴァティカン市国のなかでローマ教皇が要人との謁見などに使うのが、ヴァティカン宮殿です。有名なサン・ピエトロ大聖堂のすぐ横にあります。
このヴァティカン宮殿の大部分を占めるのが、ヴァティカン美術館です。16世紀末に教皇ユリウス2世により創設されたこの美術館は500年以上の歴史をもち、歴代のローマ教皇が蒐集(しゅうしゅう)した美術品を展示しています。ラファエロの「アテネの学堂」やレオナルド・ダ・ヴィンチの「聖ヒエロニムス」など数々の名作がここに収められています。
ヴァティカン美術館には日本人画家たちの作品が納められていることをご存知でしょうか? 今回はその1つ、岡山聖虚(1895~1977年)という画家が描いた「日本二十六聖人画」を紹介します。これは1597年に豊臣秀吉の命によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者を、縦2m幅75cmの掛け軸にひとりずつ描いた26枚の掛け軸からなる大作です。
岡山聖虚は15年かけてこの絵を制作し、1931年に当時の教皇ピオ11世に献上しました。日本画的な表現の中に西洋的なものが混じり合っていて、非常に心を打たれる作品です。2019年に現在のローマ教皇フランシスコが長崎を訪れた時に、日本二十六聖人記念館で「日本二十六聖人画」のレプリカ(浦上キリシタン資料館所蔵)をご覧になられました。
岡山聖虚は「忘れられた天才画家」とも呼ばれており、その作品が近年国内外で新たに発見されており、注目を集めています。聖虚のひ孫にあたる木下さんは昨秋にホームページを立ち上げました。「聖虚は100点以上の作品を残していますが、名声、名誉といったものとは無縁でした。作品の記録もあまり残っていませんので、聖虚のことをもっと広く知っていただきたいとホームページを立ち上げました」と木下さんは言います。
木下さんはヴァティカン美術館に収められている聖虚の代表作「日本二十六聖人画」は100年の間に劣化が進んでおり、一刻も早く修復が必要な状況だといいます。「約20年前に現地で日本人の修復家の方々が修復を行ってくださったのですが、26枚の絵のうち修復できたのは3分の1程度でした。早く修復の続きをしないと、劣化がどんどん進んでしまうので心配しています。ヴァティカン美術館所蔵の絵を持ち出すことは非常に難しいことなのですが、なんとか絵を日本で修復することができないか、聖虚の絵を守る方法を必死に探し続けています」。日本人の「忘れられた天才画家」の代表作、修復され良い状態で世界中の人々に見てもらう日が早く来ることを期待したいですね。
(文:世界遺産検定事務局 大澤暁)
ヴァティカン市国
登録基準:(i)(ii)(iv)(vi)
登録年:1984
登録区分:文化遺産
次回の更新は2023年6月を予定しています。
今回は日本の自然遺産『屋久島』を取り上げます。屋久島は1993年に日本で最初の世界遺産の1つとして登録されたので、2023年で登録から30周年を迎えます。記念すべき節目の年に向けて、屋久島では様々な取り組みが予定されているそうです。
その1つとしてすでにはじまっているのが、屋久島の豊かな自然や環境を通じてSDGsについて学ぼうというボードゲーム「屋久島版Get The Point」の制作と活用です。「循環型社会の構築」や「限りある資源の有効活用」、「自然との共存」が、自分たち自身の暮らしを豊かにし、その豊かさを持続させていくために不可欠であるということを実感することを目的としています。
例えば、屋久島の99%の電力を賄っている「水力発電」や地元の植林した杉を使った「屋久島地杉の家」、屋久島特産の「たんかんのジュース」などがポイントアップとなるプラスのカードに使われています。一方、観光地ならではの課題である「オーバーツーリズム」や「水質汚染」などがマイナスのカードとなっています。これらのカードの要素は、屋久島町内の小中高生を中心にワークショップを実施し、延べ700人以上へのアンケートから特産物や地域貢献、課題感を抽出して決めたということです。
ゲームの制作に携わったNPO法人HUB&LABO Yakushima代表理事の福元豪士さんはこう話します。「元々、屋久島では町が『屋久島型ESD(Education for Sustainable Development)』と言って、SDGsも絡めた持続可能な開発のための教育というのをずっと進めていました。その一貫として世界遺産登録30周年で何かこの教育をもっと広げるためにできないかということで屋久島版ボードゲームの開発がはじまりました。身近な題材を使うことで、SDGsが掲げる目標やメッセージが、子どもたちや地域住民、観光で訪れる人々により伝わりやすくなります。」
「屋久島版Get The Point」はすでに屋久島町の多くの小学校、中学校、高校の授業で導入されています。「子どもたちの反応も良いのですが、教員の皆さんがすごく良い教材だと評価してくれています」と福元さんは話します。「屋久島というこの島は世界遺産に登録されている『世界の宝』なんだということを子どもたちに伝える意義はとても大きいと思います。子どもたちの中には世界の宝である屋久島の自然を守らなければということで、ごみ拾いをする子どもたちなどがいます。そうした子どもたちのアクションが大人も変えていっています。」
屋久島の世界遺産登録エリアは島の一部分ですが、30周年を機にこれを拡大しようという動きもあるそうです。「今登録されているエリア以外にも学術的にすごく貴重な自然が残るエリアがあるので、そこも世界遺産に拡大登録するために会をつくって動き出しています。SDGsというのは2030年までの目標ですが、そこで終わるわけではありません。屋久島はその先を見据えてすでに動き出しています。世界中の人の注目が集まる島なので、世界の見本となる活動を行って、発信していければ良いと思っています」。
SDGs後の2030年以降の世界を見据えて、すでに動き出している屋久島。今後もますます注目していきたいですね。
(取材協力:すなばコーポレーション、日テレアックスオン)
(文:世界遺産検定事務局 大澤暁)
屋久島
登録基準:(vii)(ix)
登録年:1993
登録区分:自然遺産
次回の更新は2023年3月を予定しています。