■研究員ブログ■【連載 世界遺産はどう決まる?】第2回 世界遺産誕生の背景②

 第2回も引き続き、世界遺産誕生の背景です。今回は、第1回で取り上げたイエローストーン国立公園と並んで世界遺産条約の誕生に関係している、ヌビアの遺跡群です。

エジプト近代化のシンボルであった巨大ダム計画

 ヌビアの遺跡群というのは、エジプト文明を生んだナイル川の上流、地図で言うとエジプト南部のスーダンとの国境にも近いヌビア地方にあるアブ・シンベル神殿やフィラエのイシス神殿などの古代エジプト文明の遺跡群のことです。

 ナイル川は定期的に氾濫することでエジプト文明を生み出しましたが、現代においてはナイル川の治水が大きな課題となっていました。エジプトではその課題を解決するために1902年にアスワン・ロウ・ダムを完成させます。しかし、それだけでは対応しきれず、1952年により上流にアスワン・ハイ・ダムの建設を計画しました。このダムの建設を進めたのが、1952年のエジプト革命によって誕生したエジプト共和国の第2代大統領ガマール・アブドゥル・ナセルでした。

 ナセル大統領は、アスワン・ハイ・ダムの建設をナイル川の氾濫対策や農業用水の確保、経済成長などのためだけでなく、エジプト近代化のシンボルにしようと考えていました。そのため、巨大なダムが完成するとアブ・シンベル神殿などの貴重なエジプト文明の遺跡群がダム湖に沈んでしまうという問題が指摘されていましたが、計画が推し進められたのです。

東西冷戦下で始まったユネスコの遺跡救済キャンペーン

 もちろん、エジプト政府も文化財の破壊を望んでいたわけではありませんでした。1958年にエジプトの文化大臣に就任したサルワト・オカーシャは、エジプト文明の貴重な遺産が破壊されたり海外に流出することを避けるため、ナセル大統領を説得して、1959年4月にユネスコに遺跡群救済の協力を要請しました。またダム湖には隣国スーダンにある遺跡群も水没してしまうため、1959年10月にはスーダン政府もユネスコに救済協力の要請を行っています。

 エジプトとスーダンの両国から要請を受けたユネスコは、国連機関の中でも文化を扱うユネスコが取り組むにふさわしい事業であるとして救済事業にとりかかりました。しかし、この救済キャンペーンが呼びかけられた時代は冷戦時代で、国際協調が簡単に進まない時代でした。

 1956年にナセル大統領がイギリスとフランスの国策会社が運営するスエズ運河を国有化することを決定したため、イギリスとフランスはエジプトと対立関係にあったイスラエルを支援する形でエジプトに圧力をかけ、1956年10月から始まった第二次中東戦争でエジプトに侵攻していました。国際社会の批判や国連の介入もあり、英仏軍とイスラエル軍は1957年3月までにスエズ運河一帯から撤退しましたが、エジプトの遺跡救済に協力する状況ではありませんでした。

 そうした中、西側諸国と対立関係にあったソ連がエジプトに資金援助を行い、ユネスコによる遺跡群の救済方法や資金調達の計画が立つ前の1960年1月に、アスワン・ハイ・ダムの建設が始まりました。

世界遺産の理念へとつながったヌビアの遺跡群の救済

 1959年10月に始まった考古学者や建築家、美術史家などの専門委員会によるヌビアの遺跡群の調査報告を受けたユネスコは、1960年3月に事務局長のヴィットリーノ・ヴェロネーゼが、遺跡群の重要性と国際協力によって遺跡を救済する意義などを訴え、「ヌビアの遺跡群救済キャンペーン」を呼びかけました。また、フランスの文化大臣アンドレ・マルローもユネスコによる「ヌビアの遺跡群救済キャンペーン」がいかに歴史的な出来事であるかを演説で訴えました。

 一方でエジプトのサルワト大臣は、「黄金のマスク」などのツタンカーメンの秘宝をアメリカやフランス、日本などの展覧会に貸し出し、エジプト文明への理解と協力を求めました。そうしたさまざまな働きかけによってヌビアの遺跡群に対する世界的な関心が高まり、約50の国や民間企業、個人などから約8,000万USDが集まりました。

 日本からは、日本ユネスコ連盟傘下のユネスコ協力会や学生ユネスコクラブなどの募金約5,000USDと、朝日新聞から「ツタンカーメン展」などの収益金約112万USDなどが送られました。日本からの支援金のほとんどは民間からのものでした。

 こうして各国政府や民間の協力を得た「ヌビアの遺跡群救済キャンペーン」は、五大陸から40の技術派遣団の支援を受けて1980年3月8日まで続けられ、アブ・シンベル神殿を含む22の遺跡が6つのグループに分けて移築、保護されました。

 この冷戦時代に、東西の国々だけでなく民間の人々も協力してエジプトとスーダンの遺跡群を守った経験が、世界中の文化財や自然を国家や民族を超えた「人類共通の遺産」として協力しながら守っていく、後の世界遺産の理念につながっていきました。

(次回に続く)