2022年 6月『ヌビアの遺跡群:アブ・シンベルからフィラエまで』

ヌビアの遺跡救済キャンペーンに現地で参加した、ただ一人の日本人


 今回取り上げる世界遺産は、今年度の世界遺産検定のポスターでもメインビジュアルの1つになっている『ヌビアの遺跡群:アブ・シンベルからフィラエまで』です。今年は世界遺産条約が1972年のユネスコ総会で締結されてから50年目という節目の年。そのため、世界遺産条約の理念が生まれるきっかけとなった「ヌビアの遺跡群」を取り上げています。
 「ヌビアの遺跡群」が世界遺産条約誕生のきっかけになったという話は、おそらく多くの方がご存じだと思いますが、簡単におさらいしておきます。1952年にエジプト政府は「国家の近代化」と「国民生活の向上」のために、ナイル川にアスワン・ハイ・ダムの建設を計画します。しかし、ダム建設計画が実行されると、「アブ・シンベル神殿」や「フィラエのイシス神殿」などのヌビア地方の遺跡がダム湖に沈没してしまうことがわかり問題となりました。

アブ・シンベル神殿の移築前の写真

 エジプト政府とスーダン政府から要請を受けたユネスコは、1960年からヌビアの遺跡群救済キャンペーンを開始します。このキャンペーンには日本を含む世界50ヵ国や民間団体、個人が協力し、見事ヌビアの遺跡群をダムに沈まない高台へ移転することに成功しました。世界中の国々が協力し、遺産を救済したことは「人類共通の遺産(Common heritage of mankind)」という世界遺産の理念へとつながっていきました。

アブ・シンベル神殿を移築する様子

 ここまでは皆さんよく知っているお話だと思います。では、ここでクイズです。50ヵ国が参加したヌビアの遺跡救済キャンペーンですが、日本はどのように協力したでしょうか?
 正解は、民間からの寄付金を中心とした支援金を送った、です。日本ユネスコ団体連盟傘下のユネスコ協力会、学生ユネスコクラブなどの募金キャンペーンにより約5,000ドル、さらに朝日新聞社が1963年に行った「エジプト美術五千年展」および1965年の「ツタンカーメン展」の収益金112万ドルをヌビアの遺跡救済キャンペーンのために寄付しています。こうした民間からの義援金を中心とした資金により、救済キャンペーンへの日本の財政支援は115万ドルにおよび、ユネスコ主要加盟国の中でも上位に入ったといいます。一方で、政府からの公的資金による支援金は少なく、欧米の先進国のように現地に調査団を送ることもしませんでした。
 では、ヌビアの遺跡救済キャンペーンに参加した日本人はいなかったのでしょうか?じつはただ一人、現地で遺跡救済キャンペーンに関わった日本人がいました。それが後に東海大学で教鞭を執った鈴木八司(1926-2010)です。

ヌビアの遺跡救済キャンペーンに現地で参加した鈴木八司(写真提供:東海大学 文明研究所)

鈴木八司がヌビア遺跡救済キャンペーンで果たした役割とは?

 今回、鈴木八司がヌビア遺跡救済キャンペーンで果たした役割を知るために、京都大学の坂本翼さんにお話を聞きました。坂本さんは古代エジプトやスーダンの歴史を研究しており、鈴木八司についての論文を執筆されています。
「鈴木八司先生はエジプト学のパイオニアの一人です。まだほとんど先人がいなかった時代に、古代エジプトの研究を志して、カイロへ10年間留学されていました。そういう中で、ヌビアの遺跡救済キャンペーンの調査に関わっていきました」
 1960年にヌビアの遺跡救済キャンペーンを始めたユネスコは、当時の事務総長ビットリオ・ヴェロネーゼが、救済キャンペーンへ日本も参加するよう呼びかけます。日本政府内には、文化大国として国際社会で存在感を示すために参加すべきであるという賛成派と、海外の文化遺産保護に協力している余裕はないという反対派の二つの立場が対立していました。そうした中で、とにかくまずは現状の把握に努めるべきだという考えのもと、カイロに留学していた鈴木に対して、現地の様子を調査してくるようにとの依頼が日本政府から舞い込みます。

鈴木八司のヌビアでの調査をまとめた著書『ナイルに沈む歴史―ヌビア人と古代遺跡』(1970、岩波新書)

 依頼に応えて、鈴木八司はヌビアを2度調査しています。1度目は1960年9~10月です。この調査はヌビアの遺跡救済キャンペーンへの各国の参加状況や支援方法の実態を探るために行われました。2度目は1961年1~2月です。2度の調査の結果、ヌビアの遺跡救済キャンペーンに参加することは、日本における古代オリエント研究の重要な契機になるので、ぜひキャンペーンに参加すべきであると鈴木は日本政府に進言しています。また、日本の新聞や雑誌に広く寄稿し、ヌビアに残る古代遺跡の重要性やこの地に住む人々の故郷が今まさにダム湖に沈もうとしている危機的状況を盛んに訴えています。

鈴木八司がヌビアで発掘した資料「黒色研磨碗」(東海大学 文明研究所蔵 資料番号SK120-00-000)

 結局、遺跡救済キャンペーンに日本政府が正式に調査団を派遣することはありませんでしたが、こうした鈴木の尽力が後の日本政府のユネスコ活動の支援をもたらしたと坂本さんは指摘します。「鈴木先生の進言が受け入れられることはなかったかもしれないが、遺跡救済を目指し先生がヌビアで始めた奮闘の数々は、やがて形を変えてボロブドゥールやスコータイ、モヘンジョ・ダーロ遺跡への日本政府の支援につながっていったように思います」  さらに、鈴木八司はヌビア調査の中で、遺跡が移転される前の様子を収めた写真や、考古学的に価値の高い資料を数多く収集しています。「鈴木先生が行った踏査は考古学的なアプローチの1つです。ユネスコがこの踏査をどのように受け止めているかはわかりませんが、鈴木先生は確かな問題意識をもち、日本を代表する考古学者としてキャンペーンに参加していたのだと声を大にして言いたいですね」(坂本翼さん)

鈴木八司についての論文を執筆した京都大学の坂本翼さん

 「人類共通の遺産(Common heritage of mankind)」という世界遺産の理念誕生につながったヌビアの遺跡救済キャンペーン。公的には認められていないかもしれませんが、そこに熱い思いをもって関わった日本人がいたことは、ぜひ覚えておきたいですね!

(世界遺産検定事務局 大澤暁)

ヌビアの遺跡群:アブ・シンベルからフィラエまで
登録基準:(i)(iii)(vi)
登録年:1979
登録区分:文化遺産

次回の更新は2022年8月を予定しています。

例題

Q1.世界遺産条約が生まれるきっかけとなった出来事は何でしょうか? (4級レベル)
  1. ベルリンの壁の崩壊
  2. ナチス・ドイツの侵攻
  3. アスワン・ハイ・ダムの建設
  4. アメリカ合衆国の独立
Q2.『ヌビアの遺跡群:アブ・シンベルからフィラエまで』に含まれるものは? (3級レベル)
  1. パルテノン神殿
  2. イシス神殿
  3. サンスーシ宮殿
  4. ベルヴェデーレ宮殿
Q3. 「ヌビアの遺跡群救済キャンペーン」が始まるよりも後の世界遺産に関する出来事は? (2級レベル)
  1. ハーグ条約採択
  2. IUCNの設立
  3. アテネ憲章の採択
  4. ICOMOSの設立