■ 研究員ブログ161 ■ 首里城正殿の火災を次に活かさなくては

朝からニュースで目にした首里城の火災は、まるで映画のワンシーンの様な、衝撃的過ぎて僕には現実感の感じられない映像でした。信じたくなかったと言うか。今年4月のノートル・ダム大聖堂の火災を受けて、文化庁は来年度予算に今年度の4倍近い80億円を、文化財の防火設備の補助費として要求していました。その矢先の出来事で本当に残念です。

首里城はこれまで何度も焼失と再建を繰り返してきました。今回焼失した首里城正殿は、第二次世界大戦の沖縄戦で焼失し、1992年に復元されたものです。しかし、正殿は再建されたものだからまた再建すればいいじゃん、という簡単な話ではないのです。第二次世界大戦で沖縄県の人々が受けた被害と悲劇はここで言うまでもありませんが、その沖縄戦から沖縄の人々が立ち上がり、自分達のアイデンティティと歴史、文化を取り戻したシンボルが、あの首里城でした。

1970年に「戦災文化財」として首里城の復元が提案されます。1972年に沖縄が日本に返還されると、1986年には沖縄復帰記念事業で首里城跡地を「国営沖縄記念公園首里城地区」として整備していくことが決まりました。そこからの復元作業が本当に大変でした。沖縄戦で多くの資料が失われてしまっていただけでなく、沖縄戦で焼失した18世紀初頭の正殿建設に携わった人も当然いなかったので、さまざまな調査や研究、議論が行われました。瓦屋根の色や形、素材、建物の向きなど、同じ時代の中国に残る資料なども参考にしながら検討され再建されました。屋根の瓦の色を検討するために、火加減や土の配分などを工夫してカラーチャートのように細かな色分けをして検討した当時の映像が史料として残っています。首里城正殿の復元は、単なる文化財の再建を越えて、沖縄の人々が自分達の誇りを取り戻す作業だったのです。

正殿内部には消火設備はなく、外部からの防火対策がなされていたようですが、今回の火災の映像を見ていると、防火設備が本当に機能していたのか疑問です。例えば同じように外部からの防火対策をしている『紀伊山地の霊場と参詣道』の高野山にある御影堂では、定期的に放水を行い動作点検を行っています。首里城でも年に2回の消防設備の点検や訓練を行っていたそうですが、その内容が充分であったのかの検証も今後必要になります。他にも火災センサーやセキュリティセンサーはどうだったのか、首里城のような大型の消防車の入れない文化財の消火活動計画は適切だったのか。今回は消防職員の方が脱水症状を起こすなど、負担が大きかったこともわかっています。木造の文化財が多い日本では、防火対策は必須ですので、予算をしっかりとって最新の技術と知識を用いるなど、他の木造文化財でも再点検をした方がよいと思います。そんなことお前に言われなくてもわかってるって、と言われちゃいそうですが。

1966年のアルノ川の大洪水でフィレンツェの街は大きな被害を負いました。その復興の過程で、文化財の保存・修復技術の発展や、文書のアーカイヴ作成などが大きく前進しました。今回の首里城正殿の火災を教訓に、木造文化財の防火設備の充実や防火対策の進化があるとよいと思います。火災が少しでも前向きな足がかりとなるように。

最後になりましたが、この火災によって『琉球王国のグスク及び関連遺産群』が危機遺産リストに入ることはないと思います。同じように建物が完全に焼失した『カスビのブガンダ王国の王墓』はすぐに危機遺産リストに記載されましたが、その時と今回は違います。首里城正殿は、都市計画法に基づく「首里城公園」として保護を受ける世界遺産登録範囲に含まれていますが、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』がもつ「顕著な普遍的価値」を構成する重要な要素ではありません。そのため正殿などの焼失は、危機遺産リスト記載の条件である「顕著な普遍的価値が危機に直面している」という状況ではないので、危機遺産リストに入ることはないのです。

ここから再び復元するのは大変な作業ですが、少しでも早く復元されることを願っています。

(2019.10.31)