■ 研究員ブログ177 ■ 秋田の世界遺産へ!①:縄文人は人生を楽しんでいた!?

雲の上に、雪に覆われた山頂を覗かせる美しい富士山を横目に見ながら、羽田空港から大館能代空港まで約1時間。そこから車でまた約1時間で秋田県鹿角市(かづのし)にある「大湯環状列石」に到着します。地図上で見ると、東京からものすごく遠く離れている感じがしますが、案外、あっさりと到着してしまいました。

「大湯環状列石」は、2021年に新しく世界遺産登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産の1つです。今から約4,000年前、縄文人たちがこの地に定住を始め、独自の文化を生み出していました。縄文人はなぜ、こんなにも遠い場所まで歩いてやってきて、環状列石を築いたのでしょう。今回は、秋田県庁のご厚意により、秋田県内にある2つの構成資産、「大湯環状列石」と「伊勢堂岱遺跡」を訪れることができました。そこで感じたことは、縄文人って楽しそうだな! ということです。

「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、北海道と青森県、秋田県、岩手県に点在する17の縄文遺跡で構成されています。その内、秋田県に2つだけある構成資産の「大湯環状列石」と「伊勢堂岱遺跡」は共に、環状列石を中心とする遺跡です。環状列石とは、川原石を円形に配置したもので、「ストーン・サークル」という呼び名の方が馴染みがあるでしょうか。

現在の日本で、国の特別史跡は63件ありますが、縄文時代の遺跡は4つだけ。中でも環状列石はこの「大湯環状列石」のみです。因みに、4つの内の1つは、同じく「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産の「三内丸山遺跡(青森県青森市)」です。

先ほど、「縄文人たちがこんなにも遠い場所まで歩いてやってきて」と書きましたが、北海道・北東北に定住した縄文人のルーツは1つではなく、南方から歩いてきた人々もいれば、北伝いに大陸から渡ってきた人々もいました。

彼らが移動してきたきっかけは、氷河時代と呼ばれる時代が終わって気候が穏やかになり、南の方にもいたヘラジカやオオツノシカなどの狩りの対象が寒い北に移動したことや、縄文海進によって拠点を変えざるを得なかったことなどが考えられます。そうして移動してきた人々が、津軽海峡でサケやマスなどの豊富な海洋生物に出会い、特定の季節に協力して漁労などを行う必要性から、三内丸山遺跡などの大規模集落が作られていったのでしょう。また、春先や秋口の森林資源でも同じで、木の実や山菜などを処理するためには短い期間を有効に利用して食料を確保する必要があり、大きな社会組織が必要になったのだと思います。

しかし、三内丸山遺跡よりも後の時代の縄文後期に、500年ほどかけて造られ続けた大湯環状列石は状況が異なります。海からも遠く、雪も多い厳しい環境であり、三内丸山遺跡のような大規模集落もありません。彼らはなぜこの地で環状列石を築いたのでしょうか。

大湯環状列石を実際に訪れて感じたのは、彼らの精神文化の成熟さです。大湯環状列石は大湯川と豊真木沢川(とよまきさわがわ)によって作られた「中通台地」と呼ばれる舌状台地の上にあります。舌状台地とは、舌のような形で平地に突き出した台地のことです。その中通台地の上に「野中堂(のなかどう)環状列石」と「万座(まんざ)環状列石」の2つの環状列石があります。

この2つの環状列石はそれぞれ二重構造になっていて、それぞれの円の中心と、日時計状組石と呼ばれる独特な形状をした組石が一直線に並んでいます。野中堂から万座を見ると、万座の方が高い場所にあり、すぐ近くにあるのに、万座から野中堂の環状列石は見えません。そして、野中堂環状列石の中心から日時計状組石を通って、万座環状列石の中心を一直線に抜けた先に、夏至の日の太陽が沈んでいくそうです。

こうした地形や天体の動きを考えた配置は、全て偶然ではないと思うのです。縄文中期の大規模集落を経て、より精神的に成熟した文化をこの地で築いたのでしょう。

キリスト教の聖書の言葉に、「人はパンのみにて生きるにあらず、主の口から出る全ての言葉によって生きる」というものがあります。縄文後期の縄文人たちは、この自然とのつながりを感じる場所で、安定した生活を送りながら、ただ食べて生きるだけではない、より精神的に高度な段階に一歩を踏み出したように感じました。聖書に出てくるような神の概念はなかったでしょうが、自然に対する畏怖や畏敬はあったはずです。

それをより強く感じたのが、北秋田市の伊勢堂岱遺跡です。伊勢堂岱遺跡も、大湯環状列石とほとんど同じ時期に作られた環状列石で、こちらには4つもの環状列石が残されています。そして伊勢堂岱遺跡も舌状台地の上にあるのですが、4つとも台地北西部の狭い範囲に集中しています。その北西部から見えたものは、とても見晴らしの良い平地の先にそびえる白神山地でした。伊勢堂岱遺跡を作った縄文人たちも、白神山地をはじめとする周囲の自然環境への畏敬の念から、この場所に環状列石を築いたと考えるのに十分な眺めです。

また、大湯環状列石で使われている石は、遺跡から2~4kmも離れた大湯川の川原から運ばれてきたと考えられています。彼らにとって、石を運んでくること自体が一大イベントで、そうしながら人々のつながりを確認していく社会だったのでしょう。ヒスイのような美しい緑色の石は、大湯川支流の安久谷川(あくやがわ)上流にある諸助山(もろすけやま)の柱状節理の岩が産地とされ、川の流れの中で丸く削られたものがそのまま使われています。石なら何でもよかったという訳ではない辺りにも、精神性の高さを感じます。

大湯環状列石にも伊勢堂岱遺跡にも、資料館が併設されています。大湯ストーンサークル館と伊勢堂岱縄文館はぜひ、訪れてみて下さい。縄文人たちが、毎日を楽しんでいた姿を感じることができます。発掘された土偶や土製品などを見ていると、彼らが生きるのに精いっぱいでガツガツしていたようには、どうしても思えないのです。僕が妄想好きだというのもあるのかもしれませんが。

子供のおもちゃとしか思えない多くの「ミニチュア土器」や、いろいろなものを食べていただろうになぜかこれだけ大量に出土した「キノコ形土製品」、耳飾りや首飾り、表情豊かでさまざまな形の土偶など、本当に楽しそうなんです。

北秋田市教育委員会副主幹の榎本剛治さんによると、縄文人にも手先が器用な人とそうでない人がいて、土偶の髪の毛を編んだように細かく表現する人もいれば、手抜きで穴を2つだけ開けて髪の毛の表現にする人がいたり、人それぞれなんだそうです。そう思うと、今の僕たちと同じように感じますよね。

もしかしたら、環状列石ががたがたしていたり、輪が切れていたりするのだって、リーダーが「こういう風にきれいに石を並べて!」って言ったのに、完成してみたら「何でこんなことになっちゃってるの!?」ということだったのかもしれません。みんなで土偶を作っているときに、ひとりだけひたすらキノコを作ってる人がいたりとか。

この時代は、グループ間の争いもほとんどなく、近くに火山帯もあり周囲よりは暖かくて、野生動物も多くクリなどの栽培のおかげで飢えることもない。そんな時代に、縄文人たちが山々や星を眺めて、土偶や土器を作って、祖先を埋葬して。きっと歌ったり踊ったりもしていたと思うんです。楽しそうですよね。

縄文遺跡に行って、周囲の風景を眺めて風に吹かれていると、想像がどんどん膨らんできます。同時に疑問もたくさん。

世界の多くの古代遺跡で夏至の日の出の方角を重視しているのに、大湯環状列石ではなぜ夏至の日没なの? 野中堂環状列石の先には冬至の日の出の方角があるのは、夏至よりも冬至を重視していたから? なぜ露天祭祀なの? 岩上祭祀は行われなかったの? ミニチュア土器は本当は何だったの? 環状列石の周囲の建物は何に使われたの? 柱の本数の違いは何? 環状列石はどれほど落葉樹の森に覆われていたの? 森の中で本当に日の入りは見えたの? などなど疑問だらけです。

縄文遺跡に対する疑問は、必ずしも答えが出ないのかもしれませんが、答えが出ない分、現地で直に肌や耳で感じて、目で見るという、言葉を超えた体験でしか得られないものがあるのだと思います。

約4,000年前の縄文人が置いた石が、レプリカではなく本物が、そのまま目の前にありますので、ぜひ訪れて、いろいろなことを感じて想像を膨らませてきてください。縄文人をどこか身近に感じますから。

<続く>

(2021.11.01)

大湯環状列石の野中堂遺跡
伊勢堂岱遺跡の環状列石A
髪の毛を2つの点だけで表現した伊勢堂岱遺跡出土板状土偶
大湯環状列石から出土した様々な形をしたキノコ形土製品
大湯環状列石から出土したおもちゃのようなミニチュア土器