■ 研究員ブログ183 ■ キエフ から キーウ へ

ロシア軍がウクライナへ侵攻してから、1カ月以上が経過しました。多くの一般市民にも被害が出ており、ニュースで見るたびに心が痛むような状況が続いています。花見客で混雑する日本の映像と、どちらも画面越しに見ていると、同時代にないような変な感覚に陥ってしまいます。

昨日、日本政府は公式にウクライナの地名表記などを、ウクライナ語に沿ったものにすることを発表しました。「キエフ」は今後「キーウ」に変更されます。これは、ロシアからの分離を明らかなものにしたいウクライナ政府からの要請に従ったものです。「ドニエプル川」は「ドニプロ川」、「チェルノブイリ」は「チョルノービリ」になるそうです。

ウクライナの公用語であるウクライナ語は、スラヴ諸語のルーツとなるスラヴ祖語から生まれた古期ロシア語が、さらにロシア語やベラルーシ語などと共に分かれたものです。12世紀頃には、ウクライナ語としての特徴ができていたそうです。

キーウの辺りは、南北にドニプロ川が流れ、豊かな森林と草原が広がる場所だったため、古くより多くの民族が移動や交易、交流を行う場所でした。そのため、歴史的にさまざまな民族や国家に支配され、ウクライナ語も何度も使用が禁止されてきました。特にロシア帝国の下では、ウクライナ語は存在自体が認められず、ロシア語の方言の1つという扱いでした。

ソ連時代の一時期、ウクライナ語はウクライナ社会主義ソヴィエト共和国で整えられ、使われるようになります。しかし、1930年代にはロシア化政策が強化され、ウクライナ語の使用は反革命的な行為であるとして否定されてしまいました。

そうした歴史があるため、1991年にウクライナが独立した時に公用語となったウクライナ語は、ウクライナの人々の独立やアイデンティティのシンボルでもありました。今回のウクライナ政府の要請(要請自体は2015年の頃からあったそうです)は、民族的アイデンティティを高めるものとして理解できます。

一方で、ウクライナはポーランド寄りの西側と、ロシア寄りの東側で、歴史も文化も異なっており、ウクライナ語の中にも、ポーランド語の影響を受けたものと、ロシア語の影響を受けたものが混在しているそうです。また国家としても、ロシア語などの少数民族集団の言語の使用や育成を憲法で保障しており、ウクライナ国民の中にもロシア語を母語とする人々がいます。

国家が公用語に沿った表記を自分たちで行い、各国にもそれを求めるというのは権利として当然だとは思うのですが、民族や文化の複雑さを考えるとなかなか難しい問題だなとも思います。やり方を間違えると、多様性の排除や公正・公平の否定につながりかねないというか。「キエフ」を「キーウ」にすることなどを否定しているのではなく、むしろ賛成なのですが、ウクライナにはウクライナ語話者しかいないなどと、私たち日本人も誤解しないようにしなければいけないと、自戒を込めて思います。

自分の仕事で考えると、世界遺産検定のテキストでも、世界遺産「キエフ:聖ソフィア聖堂と関連修道院群、キエフ・ペチェルスカヤ大修道院」は、今後テキストを改定する時に「キーウ:聖ソフィア聖堂と関連修道院群、キーウ・ペチェルーシカ大修道院」と表記を変えることになると思います。

当然、その時に本文中の「ドニエプル川」も「ドニプロ川」に変えるのですが、「キエフ大公国(キエフ・ルーシ)」はどうしたらよいのでしょう。「キーウ大公国(キーウ・ルーシ)」になる? しかし、9世紀後半に成立したキエフ大公国は、現在のロシア領のノヴゴロドの辺りに起源があります。そうだとしたら、ロシア語由来の「キエフ大公国(キエフ・ルーシ)」の表記の方が相応しいのかな? でもそれだと、同じ場所を指す言葉に「キーウ」と「キエフ」が混在してしまう・・・・・・難しいですね。監修の先生ともよく相談したいと思います。

ウクライナのゼレンスキー大統領とロシアのプーチン大統領、実は共通点があります。ウォロディミル・ゼレンスキー大統領の名前「ウォロディミル」も、ウラジーミル・プーチン大統領の名前「ウラジーミル」も、キエフ大公ウラジーミル1世に由来しているのです。言語は違えど同じ文化圏にある証拠です。そういえばウラジーミル1世も、「キーウ大公ウォロディミル1世」になるのでしょうか。

ウクライナに、ロシアの属国ではなく、対等の主権国家として一日も早く平和な日々が戻りますように。

(2022.04.01)