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“ドナウの真珠”ブダペストとハンガリー美術


 あけましておめでとうございます。本年も「今月の世界遺産」をよろしくお願いします。2020年の初めに取り上げる世界遺産はハンガリーの『ブダペスト:ドナウ河岸とブダ城地区、アンドラーシ通り』です。
ヨーロピアン・ベスト・デスティネーションズという団体が毎年、世界中の50万人以上の旅行者にアンケートを取り、旅をするのに最も良いヨーロッパ都市はどこかを決めています。最新の調査で一位に選ばれたのがハンガリーのブダペストでした。

ヨーロピアン・ベスト・デスティネーション2019で第一位に選ばれたブダペスト(写真は国会議事堂)
 ゴシック・リヴァイヴァル様式で建てられた国会議事堂やドナウ河にかかる「くさり橋」、立ち並ぶ建物のファサードが美しいアドラーシ通りやマーチャーシュ聖堂、ブダ城やリスト音楽院などなど、写真を見ているだけでため息がもれそうですね。「ドナウの真珠」と称えられるこうした美しい歴史的な街並みはもちろん、世界でも有数の治安の良さなどが評価されて、ヨーロピアン・ベスト・デスティネーションの第一位に選ばれました。

カラフルな屋根が特徴的なマーチャーシュ聖堂
 さて、そんなブダペストに行った気分に少しひたれる美術展が開かれています。東京・六本木の国立新美術館で開催中の「ブダペスト―ヨーロッパとハンガリーの美術400年」(2020年3月16日まで)。ハンガリー最大の美術館であるブダペスト国立西洋美術館とハンガリー・ナショナル・ギャラリーのコレクションを集めた展覧会です。両館の所蔵品がまとまった形で来日するのは、じつに25年ぶりのことです。
この展覧会はタイトルの通り、ルネサンスから20世紀まで約400年間のヨーロッパとハンガリーの美術作品130点が出品されています。クラーナハ、ティツィアーノ、エル・グレコ、ルノワール、モネなどヨーロッパの巨匠たちの作品に加え、ハンガリーを代表する画家たちの名作も多く見ることができます。

ブダペスト国立西洋美術館

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ルカス・クラーナハ(父)《不釣り合いなカップル 老人と若い女》1522年、油彩/板(ブナ)、ブダペスト国立西洋美術館 ©Museum of Fine Arts, Budapest-Hungarian National Gallery, 2019
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ティツィアーノ《聖母子と聖パウロ》1540年頃、油彩/カンヴァス、ブダペスト国立西洋美術館 ©Museum of Fine Arts, Budapest-Hungarian National Gallery, 2019
 ハンガリー美術と聞いて皆さんはどんな画家や美術作品を思い浮かべるでしょうか? なかなか思いつかないという人も多いかもしれません。日本ではハンガリー美術が紹介される機会が多くありませんので無理はありません。しかし、ハンガリー美術には魅力的な作品がじつは沢山あります。「ハンガリー美術の特徴は、ヨーロッパの美術と調和を取りながら、その中で自分なりの独自のポジションを見つけるように努めてきたことです」とハンガリー・ナショナル・ギャラリー絵画部門長ゲルゲイ・マリアンさんは話します。ヨーロッパ美術でありながらどこか独特の味わいがある、そうした点がハンガリー美術の魅力のようです(以下の2作品はハンガリーを代表する画家の作品)。

ブダ城の中に入るハンガリー・ナショナル・ギャラリー

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シニェイ・メルシェ・パール《紫のドレスの婦人》1874年、油彩/カンヴァス、ブダペスト、ハンガリー・ナショナル・ギャラリー ©Museum of Fine Arts, Budapest-Hungarian National Gallery, 2019
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マルコー・カーロイ(父)《漁師たち》 1851年 油彩/カンヴァス、ブダペスト、ハンガリー・ナショナル・ギャラリー ©Museum of Fine Arts, Budapest-Hungarian National Gallery, 2019

激動の19世紀が生んだハンガリー美術の開花と首都・ブダペスト


 「ブダペスト展」を見て気づいたのが、ハンガリーを代表する画家の多くが19世紀以降にあらわれているということでした。なぜでしょうか? ゲルゲイ・マリアンさんは次のように解説します。「ハンガリーの画家は19世紀に入って、様式やテーマにおいて自分のスタイルを見つけました。19世紀にはハンガリーで独立戦争や革命があり、国民意識が芽生えた時代でした。ハンガリー的な美術がこの時代に開花した背景にはそうした時代性があります」。
19世紀以前ハンガリーはオスマン帝国やハプスブルク家の支配を受けていました。しかし1848年の2月革命でオーストリアが混乱したのに乗じて、ハンガリーではコシュート・ラヨシュらによって自治政府を打ち立てられます(ハンガリー革命)。これはオーストリア軍によって鎮圧されますが、その後もハンガリーでは独立運動が続き、1867年オーストリアはハンガリーの自治権拡大を承認、ハンガリー王国を認めオーストリア=ハンガリー二重帝国となります。ハンガリー美術の開花にはこうした時代背景があるのです。

1948年のハンガリー革命の一場を描いた絵
 「ブダペスト」という都市が生まれ、現在見るような形になったのも、同じく激動の19世紀でした。ドナウ河に「くさり橋」がかけられたのが1849年のことです。この橋の完成によって、もともとブダとオーブダ、ペストと別々にわかれていた3つの街の合併の機運が高まり、1873年に1つの街に統合され「ブダペスト」が誕生しました。1872年には、エルジェーベト広場から英雄広場にのびるアンドラーシ通りが築かれ、計画的な都市開発が行われるようになりました。そして1880年には“自治国家の象徴”としてハンガリーの国会議事堂の建設がはじまります。このようにブダペストという都市の誕生も、ハンガリー美術の開花と時を同じくして19世紀に起こっていたのです。

1872年に敷設されたアドラーシ通り
 世界遺産を学んだり旅したりする時に、背景となる歴史やその国の文化・芸術について知っておくと、そこに関連性が見いだされて、何倍も興味深くなることがあります。「ブダペスト」はその好例といえるかもしれません。他の世界遺産についてもぜひ調べてみましょう。

(世界遺産検定事務局 大澤暁)

『ブダペスト:ドナウ河岸とブダ城地区、アンドラーシ通り』に関する
検定の問題はコチラ


ブダペスト:ドナウ河岸とブダ城地区、アンドラーシ通り(ハンガリー)
登録基準:(ii) (iv)
登録年:1987年登録
登録区分:文化遺産

日本・ハンガリー外交関係開設150周年記念
ブダペスト国立西洋美術館 & ハンガリー・ナショナル・ギャラリー所蔵
「ブダペスト―ヨーロッパとハンガリーの美術400年」
開催中~2020年3月16日(月)国立新美術館 企画展示室1E
https://budapest.exhn.jp

クリスマスにぴったりな世界遺産!?


 12月に入って街のあちこちがイルミネーションで彩られ、クリスマスの雰囲気が高まってきましたね。今回とりあげるのはクリスマスにぴったりな世界遺産です。

クリスマスにぴったりな世界遺産と聞いて、皆さんはどこを思い浮かべるでしょうか?人によって答えはさまざまだと思いますが、今回紹介するのは『イエス生誕の地:ベツレヘムの聖誕教会と巡礼路』です。クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする降誕祭の日ですから、まさにぴったりな世界遺産ではないでしょうか。


ベツレヘムの聖誕教会の前には毎年大きなクリスマスツリーが設置される ? Egisto Nino Ceccatelli
 ベツレヘムはエルサレムから南へ10kmほど行ったところにある小さな町です。マリアはこの町でイエスを生んだと『新約聖書』で伝えられています。イエスが生まれてから3世紀ほど経た339年に、イエスが生まれたとされる場所に建てられたのが「ベツレヘムの聖誕教会」です。現在建っている教会は6世紀に建て直されたものですが、床モザイクや外壁の基壇の一部は創建当時のものと考えられており、現存する世界最古級の教会です。この聖誕教会のほか鐘楼、庭園、巡礼路などが『イエス生誕の地:ベツレヘムの聖誕教会と巡礼路』として世界遺産に登録されています。

聖誕教会内のイエスが生まれたとされる場所の前で祈るを捧げる人 ? Egisto Nino Ceccatelli

ベツレヘム聖誕教会修復にたずさわる日本人女性


 華やかなイメージのあるこの世界遺産ですが、じつは登録されてからずっと危機遺産リストに記載されていました。漏水などによる破損で建物が崩落する可能性があり、2012年に世界遺産登録されると同時に、危機遺産にも登録されたのです。登録の際には、緊急で保護する必要があるという理由から、正規の手順をふまない「緊急的登録推薦」という方法が取られました。
それからずっと危機遺産のままでしたが、今年(2019年)動きがありました。世界遺産委員会でついに危機遺産の登録が解除されたのです。「ベツレヘムの聖誕教会」で2013年から進められてきた約150年ぶりの大規模な修復が評価されました。

修復作業が評価され今年(2019年)危機遺産リストから脱出 ? Egisto Nino Ceccatelli
 この150年ぶりの大修復には、ひとりの日本人女性が関わっています。神奈川県出身の佐々木愛子さんです。彼女は「ベツレヘムの聖誕教会」の修復を請け負うイタリアのピアチェンティ社のメンバーとして参加しています。イタリアで修復士になるという夢をもってフィレンツェ近郊の芸術学校で学んでいたところ、ピアチェンティ社から聖誕教会修復のオファーを受けました。「こうした文化財の修復に関わることはとても貴重な機会だと思い、二つ返事で仕事を受けました。1週間後にはベツレヘムに飛んでいました」と佐々木さんは言います。

聖誕教会の修復にたずさわる日本人 佐々木愛子さん ? Egisto Nino Ceccatelli
 佐々木さんが担当したのが、教会内の柱とその表面に描かれている聖人の絵の修復です。修復した柱は6 世紀のもので、聖人の絵は11 世紀の十字軍によるものです。
教会にある修復をされていない絵は、ミサで使われる香やロウソクの黒煙で黒ずんでいるので、はじめに洗浄する必要があります。生誕教会の柱に描かれた聖人の絵も、何が描いてあるかわからないほど黒ずんでいたそうです。
修復のなかで特に気をつかったのが、この「洗浄作業」だったと佐々木さんは言います。「年代的に大変古く貴重なものですので、取り返しのつかない過剰な洗浄をしないよう十分に気をつけました」。
洗浄した後は「補彩」という絵の欠けている部分をつなぐように色をつける作業が行われます。そして最後にワニスをかけて画面を保護して修復完了です。

修復前の柱の絵の様子 ⇒ 修復後の柱の絵の様子 ? Egisto Nino Ceccatelli
 今後、佐々木さんは聖誕教会の修復に関わった貴重な経験を糧に、修復士としてキャリアを積んでいきたいと言います。「実際に毎日何百もの人が訪れて巡礼している姿をこの目で見続けていたので、生誕教会がキリスト教の信仰の中心地の一つであり、とても重要なものなのだということを肌で感じることが出来ました。ヨーロッパなどのキリスト教国で修復の仕事を続ける上で『生誕教会で働いた』ということは大きな付加価値があるような気がします」

イタリア人スタッフとともに修復を進める佐々木愛子さん ? Egisto Nino Ceccatelli
 佐々木さんたちが行った修復の様子は、国士舘大学イラク古代文化研究所展示室の特別企画展「ベツレヘム聖誕教会 修復事業および発掘調査の軌跡」で詳しく紹介されています(2020年1月30日まで)。ぜひ興味のある方は足を運んでみて下さい。
そして、もっと興味がある人はベツレヘムの聖誕教会へ実際に行ってみるのもいいかもしれません。修復を終えて見ちがえるほど綺麗になった柱絵やモザイク画を見ることできます。「living heritage(生きている遺産)」である聖誕教会には、日々多くの人が祈りを捧げに訪れますので、綺麗な状態を見られるのは今だけかもしれませんよ。

(世界遺産検定事務局 大澤暁)

『イエス生誕の地:ベツレヘムの聖誕教会と巡礼路』に関する
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イエス生誕の地:ベツレヘムの聖誕教会と巡礼路(パレスチナ国)
登録基準:(iv) (vi)
登録年:2012年登録
登録区分:文化遺産

国士舘大学イラク古代文化研究所展示室 秋の特別企画展
「ベツレヘム聖誕教会 修復事業および発掘調査の軌跡」
2019年10月26日(土)~2020年1月30日(木)入場無料
 https://www.kokushikan.ac.jp/research/ICSAI/news/details_13976.html

今月の遺産検定「イエス生誕の地:ベツレヘムの聖誕教会と巡礼路」

今月の遺産検定「イエス生誕の地:ベツレヘムの聖誕教会と巡礼路」

アンコール遺跡を救え! 日本政府事業25年の歩み


 今月とりあげる世界遺産は、第39回検定のメインビジュアルにもなっているカンボジアの『アンコールの遺跡群』です。「アンコール・ワット」や「アンコール・トム」でおなじみの、9~15世紀にかけて東南アジアに巨大帝国を築いたアンコール朝の都市遺跡です。毎年200万人もの観光客が訪れ、400㎢にわたる広大な地域に600を超える石造りの遺跡が残っています。
 2019年度の世界遺産検定では「日本も支える世界遺産」というテーマで、日本が保全・修復に関わった世界遺産をメインビジュアルに選んできました。『アンコールの遺跡群』はこのテーマに最もふさわしい遺産といえるかもしれません。「ユネスコ文化遺産保存日本信託基金」という、世界遺産を保存していくための日本政府の基金を使った最初の案件がアンコール遺跡の救済事業でした。この救済事業は現在にいたるまで続いており、2019年11月にちょうど25年目の節目を迎えます。
 今回はこのJSA日本政府アンコール遺跡救済事業の団長を務める中川武氏(早稲田大学名誉教授)に、これまで25年の歩みについてお話を伺いました。

JSA日本政府アンコール遺跡救済事業の団長を務める中川武氏
— 日本政府アンコール救済事業はどのような経緯ではじまったのでしょうか?
中川氏
 1992年の9月に外務省の文化交流部長から「すぐに来て欲しい」と電話がかかってきました。内戦が終わりつつあったカンボジアで、国際協力による社会復興事業としてアンコール遺跡の修復を行いたいということでした。ユネスコの日本信託基金が20数億円あったのでこれを使って大々的にやりたいということでした。僕はその頃スリランカの調査をしていたけれど、カンボジアにはまだ行ったことはありませんでした。アンコール遺跡が素晴らしいものだということは知っていましたが、当時日本からカンボジアへの直通便はまだなくて、入るまでに1週間もかかるような場所だったからです。「行ったことがない」と外務省の人に伝えると「すぐに行ってくれ」と言われて、もう次の週にはカンボジアに行ってました。公用パス出してもらって、外務省の人と二人で。当時はPKOで派遣された民間警察の方が亡くなるなど、大変な時でした。

1970年から90年初頭まで続いたカンボジア内戦 国民の3分の1が命を落としたとも言われる

アンコールの遺跡群も内戦で大きな被害を受けた(写真はアンコールワットに残る弾痕)

アンコールの遺跡群は1992年に世界遺産登録されると同時に危機遺産に登録された
— アンコール遺跡救済事業で苦労した点は
中川氏
 アンコール遺跡の救済事業は「アンコール遺跡国際調整会議」として日仏共同議長のもと、当時プノンペンに大使館を置いていた中国やインドなど30カ国が参加してはじまりました。やっぱりカンボジアだから旧宗主国のフランスと協力しなければならないということでした。事務局はユネスコが務めました。

フランスやユネスコは「日本に石造の文化遺産の修復はできるのか?」と言ってました。日本の文化遺産はほとんど木造でしたから。でも文化遺産の保存・修復において大事なことは、木造であるか石造であるかというよりも、きちんと科学的な調査をして、伝統的な技術を活かして修復することだと僕は考えていました。科学的な調査で劣化・崩壊要因を解明して、修復は出来る限り伝統技術を活用してやっていく、それが木造であろうと石造であろうと文化財の保存・修復において重要なことです。

また、調査をしたら修復前の報告書を出す、修復のプロセスのデータを出して終わったらまた報告書を出す、これが絶対に必要です。ところがこれをどこの国もやってくれませんでした。議長国のフランスでさえやってくれないのです。やっぱり30カ国も関係していると、プレステージ(国の威信)のためにやっているところも沢山あります。何のためにやっているんだろうと国もありました。日本は公共の修復事業においては報告書を出さないと予算がつけてもらえないからしっかりやります。このシステムは素晴らしいですよ。修復っていうのは一度やってしまうと後の人は内容が全くわからないものですから。


現地で修復を進める中川氏

伝統的な技術で修復することの大切さ


— 遺跡の保存・修復をおこなう上で気をつけたことはありますか?
中川氏
 他の国はコンクリートを使ってアンコール遺跡の修復をおこなっていました。フランスも自国ではけっして使わないはずなのに使っていました。伝統的な技術で修復するのにたいして、コンクリートでは10分の1の費用で済みますので、予算の問題でそうしていたのかもしれません。でも安くて頑丈にできるかもしれませんが、僕はコンクリートを使った修復は絶対にやりたくありませんでした。伝統的な技術、オーセンティシティ(真正性)、これだけは死守しようと思ってこれまでやってきました。

カンボジアの伝統的な技術というのは、カンボジアの環境や地質や水脈の構造、風土の中から出てきているものです。アンコール遺跡に使われている伝統的な技術では、雨季に水が入った後で、自然に蒸発する仕組みになっています。僕はこれを「自然調和思想」と呼んでいます。コンクリートで保存・修復をしてしまうと、伝統的な技術の根底にあった「自然調和思想」が失われてしまいます。だからカンボジアでは伝統技術を保存するというのが重要です。地球環境にたいする重要性を本当に理解していたら、アンコール遺跡を伝統的な技術で保存しなければならないということは理解できるはずです。そういう価値感の上にできている最良のものですから。


伝統的な技術を使って日本チームの修復は進められた

各国の修復支援の結果、2004年に『アンコール遺跡群』は危機遺産から脱した
— アンコール遺跡の魅力とは何でしょうか?
中川氏
 アンコール・ワットはとても素晴らしいし重要だと思いますが、個人的にはカンボジアが生み出した本当の世界遺産はバイヨン(※1アンコール・トムの中心となる仏教寺院)だと思います。アンコール・ワットは規模が壮大で明るい、インドにはないものがあるのは事実です。それでもやはりインド的なものです。しかし、バイヨンはどうしてああいうものができたか不思議です。庶民の生活をああいう重要な場所に描く(※2バイヨンの回廊には当時の一般民衆の生活を描いた浮彫りがある)ということは、インド的な流れでは考えられないわけですよ。あれはカンボジアにある固有の創造力によってできたものです。
あと、すごく重々しいのに解放感をもっているというのが、アンコール遺跡の重要なところだと思います。そういう要素がカンボジアにあるってことが、カンボジアのこれからをつくっていく上でとても重要です。

アンコール・トムの中央寺院バイヨン

民衆の生活を描いたバイヨンの回廊の浮彫り

(インタビュー 世界遺産検定事務局 大澤暁)

『アンコールの遺跡群』に関する検定の問題はコチラ


アンコールの遺跡群(カンボジア王国)
登録基準:(i) (ii) (iii) (iv)
登録年:1992年登録
登録区分:文化遺産

日本国によるアンコール遺跡救済事業25周年を記念してシンポジウムが開催されます

「JSA 日本政府アンコール遺跡救済事業 25 周年記念シンポジウム」
・早稲田大学西早稲田キャンパス
 2019年12月21日(土)
>詳細はこちら http://www.lah-waseda.jp/news/post/296.html

今月の遺産検定「アンコールの遺跡群」

今月の遺産検定「アンコールの遺跡群」

ウルル(エアーズ・ロック)登山禁止の理由


 今回取り上げるのは、世界で2番目に大きな一枚岩「ウルル(エアーズ・ロック)」で有名な『ウルル、カタ・ジュタ国立公園』です。映画化されたベストセラー小説「世界の中心で、愛をさけぶ」でも取り上げられたこの世界遺産が、今大きな注目を集めています。オーストラリア政府が10月26日以降のウルルでの登山を禁止したためです。

ウルルの登山口(2019年8月撮影)
 登山禁止前にこの世界的に有名な一枚岩に登ろうという駆け込みの登山客がウルルに押し寄せています。4月から8月に『ウルル、カタ・ジュタ国立公園』を訪れた観光客数は、前年を3割上回りました。8月にウルルへ登った東京都在住の女性は「登山道はとても混んでいた。登山客のなかでとくに多かったのはオーストラリア人と日本人だった」といいます。日本人が多いのは「セカチュー」の影響でしょうか。

多くの人で混み合うウルルの登山道(2019年8月撮影)


ウルル頂上からカタ・ジュタを眺む

 では、なぜオーストラリア政府はウルル登山を禁止することに決めたのでしょう? その理由は登山口に立つ看板(写真下)から知ることができます。“Please, don’t climb”と記された下には「ウルルは我々(アンガス族)の文化では神聖なものとされています。叡智の宿る場所とされています。我々の伝統的な法では登ることは許されていません」とあります。
ウルルはこの地に伝統的に暮らすアボリジニのアナング族の人々にとって聖地とされてきました。アナング族の人々は以前から長いこと登山禁止を訴えてきており、今回その主張がようやく通ったのです。

登山口に立つアナング族の訴えを記した看板
 ウルル登山が禁止される10月26日はアナング族の人々にとって特別な日です。今から34年前の1985年10月26日にウルル、カタ・ジュタ一帯はオーストラリア政府からアナング族へ「返還」されたのです。「返還」に至るまでには、先住民アナング族の人々の多くの苦労がありました。1976年から9年にも及ぶ裁判の結果、ようやくのこと「返還」は認められました。
しかし、その後もウルル、カタ・ジュタはアナング族の自由にはなりませんでした。アナング族からオーストラリア政府が“借り受ける”という形で、管理運営はアナング族とオーストラリア政府が協議しながら行ってきました。今回、登山禁止が10月26日という特別な日から開始される背景には、聖地が本当の意味で「返還」されるというアナング族の人々の思いがあるのかもしれません。

ウルル、カタ・ジュタに暮らすアナング族の人

これからの観光は“自然”と“文化”の両軸


 さて、登山が禁止された後で気になるのは『ウルル、カタ・ジュタ国立公園』の観光を今後どう楽しむかです。「過去数年にわたって、ウルル訪問者の体験を向上させるために、さまざまな新しい体験(アクティビティー)が開発されてきました」とオーストラリア国立公園管理局のスポークスパーソンはいい、登山以外にも観光客が楽しむことができるアクティビティが多くあると主張します。今後の観光の目玉として特に期待するのがアナング族の“文化”体験です。「カルチャーセンターでは毎日、文化に関するワークショップやデモンストレーションが行われ、無料ガイド付きマラウォークも毎朝開催されております。訪れた人は、古代のロックアートや国立公園の素晴らしい植物や動物を見て、アナング族にとってそれらのものがもつ重要性について学ぶことができます。またギャラリーでは地元で作られた先住民の芸術や工芸品を見つけることができます。」

アナング族の文化を学ぶアクティビティ ©Tourism NT/Archie Sartracom
 『ウルル、カタ・ジュタ国立公園』は自然と文化の双方に“顕著な普遍的価値”が認められた、数少ない「複合遺産」です。1987年に世界遺産登録された当初は自然遺産でしたが、アボリジニの伝統的な生活が営まれてきた文化面の評価も加えられて、1994年に複合遺産として拡大登録されました。ですので、『ウルル、カタ・ジュタ国立公園』というとウルル登山などの“自然”体験に目が行きがちですが、“文化”体験の普及にも力を入れる公園管理局の姿勢は理解できます。
ウルル登山の禁止を一つのきっかけとして、ウルル、カタ・ジュタで自然と文化がともに楽しめるような観光がどんどん普及してゆけばよいですね。

(世界遺産検定事務局 大澤暁)

『ウルル、カタ・ジュタ国立公園』に関する
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ウルル、カタ・ジュタ国立公園(オーストラリア連邦)
登録基準:(v) (vi) (vii) (viii)
登録年:1987年登録/1994年範囲拡大
登録区分:複合遺産

今月の遺産検定「ウルル、カタ・ジュタ国立公園」

今月の遺産検定「ウルル、カタ・ジュタ国立公園」

世界遺産と
「バウハウス」


 先週末の9月8日、ドイツで巨大なミュージアムがオープンしました。セレモニーにはアンジェラ・メルケル首相をはじめ各界を代表するゲストが駆けつけ、ミュージアムの開館を盛大に祝いました。このミュージアムの名は「バウハウス・ミュージアム・デッサウ」。1919年に開校した総合造形学校「バウハウス」の設立100周年を記念して建てられたものです。歴史に名高いアート・スクールの「バウハウス」を皆さんは知っていますか?

9月8日にオープンした「バウハウス・ミュージアム・デッサウ」(同ミュージアムHP「コンセプト」より)
 バウハウスは建築家ヴァルター・グロピウスによって設立された学校です。建築の下にすべての造形活動を統合することを理念に掲げ、パウル・クレーやヴァシリー・カンディンスキーといった当時の先端的な芸術家たちを教授陣に招いて画期的な造形教育のシステムを打ち立てました。そこから多くの革新的な造形や思想が生まれ、20世紀の建築やデザインに革命的な影響を与えたといわれます。

バウハウスを創立した当時のグロピウス
 バウハウスに関わる建物は世界遺産に多く登録されています。まずは『バウハウス関連資産群:ヴァイマールとデッサウ、ベルナウ』です。これは1919年にドイツの古都ヴァイマールで開校し、その後デッサウ、ベルリンと拠点を移しながら、1933年にナチス・ドイツの弾圧により閉校に追い込まれるまでのバウハウスの歴史を伝える校舎などの建造物をまとめて登録したシリアル・ノミネーション・サイトです。

バウハウス・ヴァイマール校舎 (設計: アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ 1904-1911年) photo Eiji Ina

 


バウハウス・デッサウ校舎 (設計: ヴァルター・グロピウス 1925-1926年) photo Eiji Ina

 グロピウスが設計した『アールフェルトのファーグス靴型工場』も世界遺産に登録されています。巨大なガラスパネルが特徴的な、“建築としての美”と“工場としての機能美”を兼ね備えたモダニズム建築の先駆けです。また、グロピウスは『ベルリンのモダニズム公共住宅』にも中心的な建築家の一人として関わっています。

アールフェルトのファーグス靴型工場 (設計:ヴァルター・グルピウス 1911-1925年)
 さらに、イスラエルの世界遺産『テル・アービブの近代都市 ホワイト・シティ』の一部もバウハウス出身の建築家が設計しています。この他にもチェコにある世界遺産『ブルノのトゥーゲントハート邸』は、バウハウスの3代目校長、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエによって設計されました。こうしてみると世界遺産のなかでバウハウスに関わる建築はかなりの数にのぼることがわかります。

ブルノのトゥーゲントハート邸 (設計:ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ 1928-1930年)

バウハウスに学ぶ
“革新性”


 今年は日本でもバウハウス設立100年を記念した催しが多くおこなわれています。巡回展「開校100年 きたれ、バウハウス —造形教育の基礎—」もそのひとつです。この展覧会のキャッチ・コピーは「バウハウスに体験入学」。バウハウスではどのようなカリキュラムが組まれ、どんな授業がおこなわれていたのかということを具体的に紹介するユニークな内容です。「バウハウスから生まれた“もの”だけを見てても、バウハウスはわかりません。バウハウスの本質は“学校”です。そこから見ていくとバウハウスの本当の姿が見えてきます」と展覧会を監修したキュレーターの深川雅文さんはいいます。

巡回展「きたれ、バウハウス」展示会場風景 (新潟市美術館 2019年8月3日〜9月23日) photo Masafumi Fukagawa
 展覧会では、各教授陣の講義ノートや教えた学生の作品から、バウハウスでおこなわれていた授業を“再現”する試みもおこなわれています。バウハウスの教育内容についてただ見るだけでなく、体験的に理解できる興味深い取り組みです。
もちろんバウハウスで生まれた画期的な“もの”についても見ることができます。金属(スチール・パイプ)を椅子の素材に使い、家具デザインに革命をもたらしたといわれるマルセル・ブロイヤーの「ヴァシリーチェア」なども含め、家具や陶器、織物など約350点が展示されています。また、バウハウスに学んだ4人の日本人学生も紹介されています。

バウハウス・デッサウ校舎内に置かれた「ヴァシリーチェア」 (デザイン: マルセル・ブロイヤー 1925年) photo Eiji Ina
 さて、100年前にドイツで開校したバウハウスという“学校”から、現代に生きる私たちは何を学ぶことができるでしょうか? 深川さんは、専門分野にかたよらず幅広い視野をもつことだといいます。「ひとつのことを掘り下げて学ぶことも重要ですが、その周辺のことに目を向けることも大事。多面的な関心をもって世のなかを見ていくことで、専門的な学びだけでは生まれない新しいアイデアが出てくる。そういうところもバウハウスから学べるところです」。
バウハウスの教育は、学生たちそれぞれの個性を引き出すとともに、新たな世界に向かって視野を広げ、既製の価値観に挑戦する実験的な精神を育みました。バウハウスから多くの革新的なデザインが生まれた理由の一つはそこにあったのではないでしょうか。
現代はバウハウスがあった20世紀前半よりもいっそう専門性の分化が進んだ時代です。教育も専門分野にかたよったものになってしまいがちです。今、バウハウスから学ぶことは多いかもしれません。

(世界遺産検定事務局 大澤暁)

『バウハウス』に関する
検定の問題はコチラ


バウハウス 関連遺産群:ヴァイマールとデッサウ、ベルナウ(ドイツ連邦共和国)
登録基準:(ii) (iv) (vi)
登録年:1996年登録/2017年範囲拡大
登録区分:文化遺産

巡回展「開校100年 きたれ、バウハウス ―造形教育の基礎―」

 

・新潟市美術館
 2019年8月3日(土)~9月23日(月)
 http://www.ncam.jp/
・西宮市大谷記念美術館
 2019年10月12日(土)~12月1日(日)
 http://otanimuseum.jp/
・高松市美術館
 2020年2月8日(土)~3月22日(日)
・静岡県立美術館
 2020年4月11日(土)~5月31日(日)
・東京ステーションギャラリー
 2020年7月17日(金)~9月6日(日)
※詳細はリンク先をご参照下さい
⇒ bauhaus 100 japan 公式webサイト http://www.bauhaus.ac/bauhaus100/

今月の遺産検定「バウハウス」

今月の遺産検定「バウハウス」

 

 

『 イスタンブルの歴史地区 』

「ビザンツ建築の最高傑作」ハギヤ・ソフィア(アヤ・ソフィア)

画像①
画像②:ハギヤ・ソフィア(アヤ・ソフィア)の巨大なドーム
 今回取り上げるのは12月におこなわれる第38回世界遺産検定のメイン・ビジュアルになっている『イスタンブルの歴史地区』です。この世界遺産を理解するためには、まず地理的な条件を理解する必要があります。皆さんはイスタンブルがどこにあるか知っていますか? 答えは図のように(画像①)アジアの最も西側に位置していて、アジアとヨーロッパのちょうど境目にあります。
この地理的条件からイスタンブルは古くよりアジア、ヨーロッパ両方の勢力から交易上・戦略上の拠点として重視されてきました。世界史を習ったことのある人なら、イスタンブルがかつてはコンスタンティノープルと呼ばれ、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)やオスマン帝国といった大帝国の首都だったことを知っているでしょう。東西の文明が時にぶつかり、時に混じり合いながら、イスタンブルの歴史は紡ぎ出されていったのです。
 『イスタンブルの歴史地区』には、この都市の波乱に満ちた歴史を伝える建造物が数多く残されています。なかでも重要なのが537年に建立された「ハギヤ・ソフィア(アヤ・ソフィア)」です。この建物はビザンツ帝国の最盛期を築いたユスティニアヌス帝によって、キリスト教の教会として建てられたものです。ペンデンティブドームという直径約31m におよぶ巨大なドーム(画像②)が見る者を圧倒し、「ビザンツ建築の最高傑作」とも評されています。建物の天井や壁面は黄金色に輝く珠玉のモザイク画で彩られています。
 ハギヤ・ソフィア(アヤ・ソフィア)はギリシャ正教の総本山として広く信仰を集めた教会でしたが、1453年にビザンツ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされると、メフメト2世の手によって改修され、イスラム教のモスクとなりました。しかし、改修は限られたものだったので教会としての要素も残りました。そのためキリスト教の教会とイスラム教のモスクという2つ特徴を兼ね備えたユニークな建築物となりました。現在ハギヤ・ソフィア(アヤ・ソフィア)は無宗教の博物館として利用されており、年間約300万人が訪れるイスタンブルを代表する観光地となっています(画像③)。

画像③:ハギヤ・ソフィア(アヤ・ソフィア)には年間約300万人が訪れる

1,400年の歴史を未来に伝える学術調査

 さて、今回メイン・ビジュアルに『イスタンブルの歴史地区』を取り上げたのは、ハギヤ・ソフィア(アヤ・ソフィア)の保全・修復に資する学術調査を日本がおこなっているからです。文部科学省の助成を受けて1990年に始まったハギヤ・ソフィア(アヤ・ソフィア)の調査は、世界で初めて等高線を使ってこの建物を立体的に測量しました(画像④、⑤)。調査団の代表を務めた日高健一郎氏(大阪大学国際公共政策研究科 招聘教授)は「地震国ですし、何かあった時にもとになる資料がない、そういうことから研究したいと提案した」といいます。トルコは日本と同じ地震国です。ハギヤ・ソフィア(アヤ・ソフィア)は1,400年にわたる歴史のなかで地震による部分的な損壊を繰り返してきました。何かあった時のためにも正確な測量図が必要不可欠だったのです。
 また、日高氏らのチームは測量を行うだけではなく、測量データをもとに建物の構造解析を行いました。その結果、ハギヤ・ソフィア(アヤ・ソフィア)の特徴である巨大なドーム構造の、東部分が地震の揺れに弱いことを発見しました。この学術調査によって得られた知見は「50年、100年、200年たつと非常に貴重になってくる。後で絶対に役立つ」と日高氏はいいます。
 世界遺産とは、人類や地球の長い歴史の中で生まれ、受け継がれてきた「人類共通の宝物」を大切に守り、次の世代へと残していくための活動です。こうした長期的な視点に立った地道な学術調査のひとつひとつが、世界遺産を未来に伝えてゆくのかもしれません。
画像④:日高氏ら日本チームの調査風景
画像⑤:測量データをもとに構造解析もおこなった

(世界遺産検定事務局 大澤暁)

『イスタンブルの歴史地区』に関する
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イスタンブルの歴史地区(トルコ共和国)
登録基準:(i) (ii) (iii) (iv)
登録年:1985年登録
登録区分:文化遺産

今月の遺産検定「イスタンブルの歴史地区」

今月の遺産検定「イスタンブルの歴史地区」

『 “日本流ODA”で守る途上国の遺産 』

スピルバーグ監督が愛した砂漠の遺跡


写真①:「シーク」と呼ばれる巨大な岩の間の細い道

写真②:岩を彫り抜いてつくられた「アル・カズネ」
(画像提供:JICA)
 今回取り上げるのは中東の国、ヨルダンの世界遺産『隊商都市ペトラ』です。皆さんはこの遺産を知っているでしょうか? はてな……という人もいるかもしれません。『隊商都市ペトラ』が世界遺産検定のテキストに出てくるのは2級からですし、これまでに取り上げた遺産にくらべると知名度は劣るかもしれません。
しかし、名前は知らなくてもこの遺産を目にしたことがある人は少なくないはずです。というのも、じつはペトラは映画『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』のロケ地のひとつになっているからです。ペトラは知らなくても「この映画は見た!」という方は少なくないのではないでしょうか。スティーブン・スピルバーグ監督による大ヒット・シリーズです。ハリソン・フォード演じる考古学者インディアナ・ジョーンズが古代の秘宝を求めてたどりつくクライマックスのシーンにペトラが登場します。この世界遺産はそんな映画の舞台にふさわしい、歩いているだけでワクワクするような古代オリエントの都市遺跡です。
ペトラでもっとも冒険心をかきたてられるのが「シーク」という巨大な岩の隙間の細い道ではないでしょうか(写真①)。『インディ・ジョーンズ』でハリソン・フォードがここを走り抜ける姿を覚えている方もいるかもしれません。高さ80メートル断崖絶壁の間をぬって走る、全長1kmに及ぶシークを進んでいるだけで、古代の秘宝を探し求める“インディ”気分を味わえること間違いなしです。
そしてシークを抜けると「アル・カズネ(宝物殿)」という壮麗な遺跡が現れます(写真②)。高さ40メートル超、赤褐色の巨大な岩を彫刻のように彫り抜いてつくられた、古代ギリシャやローマの神殿を思わせる建物です。しかし、そこには同時にエキゾチックな東方世界の血がかよっているのが見て取れます。建物を形づくるのはパルテノン神殿のように白いなめらかな大理石ではなく、砂漠のなかの薔薇色のごつごつした岩です。“古代の東方世界の伝統とヘレニズム建築が融合している”とユネスコの紹介文にはありますが、まさに東西の文化が美しく混じり合った遺産だといえます。

“日本流ODA”で守る途上国の遺産

 さて、このペトラで今年4月末に新しい博物館がオープンしました。遺跡で発掘された出土品などを展示する博物館です(写真③、④)。22台ものインタラクティブ・スクリーンや3D映像など最新の技術を使った展示が人気で、5月は1万2,000人の来場者がありました。
このペトラ博物館ですが、じつは日本の政府開発援助(ODA)によってつくられたものです。国際協力機構(JICA)が7億8,380万円の無償資金協力契約をヨルダン政府と結んで建設しました。資金だけではなく技術協力もしており、日本がもつノウハウや技術力が随所に活かされています。
ペトラ博物館を日本が支援した理由のひとつが、遺跡から発掘された貴重な遺物の保存体制を充実させることです。「これまでは遺跡からの発掘物がきちんと管理できていないという課題がありました。博物館をつくることで遺物の保存と修復を円滑に進めていくことができます」とJICA中東・欧州部の西田有一さんはいいます。ペトラでは貴重な発掘物がほこりをかぶっていたり、整理されずどこに何があるかわからないような状態がこれまであったそうです。博物館の建設によって収蔵設備を整えることで、発掘された遺物をしっかりと保存・修復し、後世に残していくことを目指しているといいます。
また、遺産の価値を広く伝えることもJICAはペトラ博物館のミッションのひとつに掲げています。とくに伝統的な古い文化に関する知識がなくなってきているヨルダン人の若い層に対して、古くからペトラで育まれてきた文化を伝えていきたいそうです。そのための施策のひとつとして、体験型イベントを積極的におこなっています。これも日本のノウハウの利用といえるかもしれません。

写真③:4月末にオープンしたペトラ博物館
(画像提供:JICA)


写真④:ペトラ博物館は最新の展示設備が整っている
(画像提供:JICA)
 5月には地域の子供たち向けに、古くから生活のなかで利用されてきた、乳香の香りを体験するイベントを開きました(写真⑤)。世界遺産条約では教育・広報の重要性が明記されていますが、ただ場所やものを保存するだけでなく、それがもつ価値をきちんと伝えていくことが大切です。ペトラ博物館は、そうした教育・広報活動をおこなう場にもなっていきそうです。
 JICAとしては博物館の内容を充実させるために、今後もソフト、ハードの両面にわったて数多くの支援を行っていきたいといいます。“日本流”ともいえるきめ細かなODAを通じて途上国の遺産を守る活動が、これからもどんどん広がっていけばいいですね。

写真⑤:乳香の香りを体験するイベント
(画像提供:JICA)

(世界遺産検定事務局 大澤暁)

『隊商都市ペトラ』に関する
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隊商都市ペトラ(アラブ諸国/ヨルダン・ハシェミット王国)
登録基準:(i) (iii) (iv)
登録年:1985年登録
登録区分:文化遺産

今月の遺産検定「隊商都市ペトラ」
今月の遺産検定「隊商都市ペトラ」

『 モアイ像を救った四国のクレーン・メーカー 』

今なお解けない“モアイの謎”

巨大なモアイをどう動かしたかは「発見」当初から謎だった(「モアイ像の測定をする人」18世紀の版画)
 今回とりあげる世界遺産はモアイ像で有名な『ラパ・ニュイ国立公園』です。皆さんはモアイの実物を見たことがありますか? 高さは平均で約4~5メートル、大きいものだと20メートル以上のものもあります。重量は20トンほどが一般的といわれます。
 そんなに巨大で重いモアイ像を昔の人たちはどうやって動かしていたのでしょうか。これはだれもが一度は抱く疑問でしょう。じっさいにモアイが西欧人によって「発見」された当初から不思議に思われてきました(※ラパ・ニュイ国立公園のあるパスクア島は1722年オランダ人によってイースターの日に「発見」された。日本では英語名のイースター島で広く知られている)。キャプテン・クックの愛称をもつジェームズ・クック(1728-1779)は探検記にこう記しています。
「機械力に関する知識のない民族が、このようにすばらしい巨像を立て(中略)、頭の上に円筒形の石をのせた、ということはほとんど想像を絶している」
『クック 太平洋探検』岩波文庫
 クレーン車も大型トラックもない時代に、モアイ像をどのように動かしていたかは、現在でも謎に包まれたままです。学者たちはさまざまな学説を発表していますが、はっきりしていません。こうした神秘のヴェールに包まれているところが、今なお多くの人がモアイにひきつけられる理由のひとつでしょう。
祭壇の上に立ち並ぶ「アフ・トンガリキ」のモアイ像
16世紀以降「フリ・モアイ」によってモアイ像は倒された

モアイ像を救った日本企業とは!?

 さて、『ラパ・ニュイ国立公園』には900体ほどのモアイ像が残っていますが、観光客に一番人気なのが「アフ・トンガリキ」という遺跡です。ここはイースター島でも最大級の遺跡で、高さ5メートルを超える巨大な15体のモアイが祭壇の上に整然と並んでいます。映像や写真でよく見かけるイースター島そのままの景色が広がっており、絶好のフォトスポットとなっています。
しかし、このアフ・トンガリキの遺跡ですが、もともとこのように美しい景観をしていたのではありません。モアイ像は地面に倒れ、ガレキに埋もれ、無残な状態で放置されていました。この悲惨な状態からモアイを救い出したのが、ある日本企業でした。
 1980年代の話です。当時イースター島知事をつとめていたセルジオ・ラプさんは、地面に倒れたままのモアイに頭を悩ましていました。16世紀ごろに対立する部族間でモアイを倒し合う「フリ・モアイ」という争いが起こり、19世紀半ばには1体残らず倒されてしまいました。モアイの多くはその時倒されたままになっていたのです。さらに、アフ・トンガリキは1960年のチリ地震によって発生した津波に襲われたため、モアイが立っていた祭壇は壊れ、モアイはガレキに埋もれてしまいました。セルジオ・ラプ知事はモアイ像を動かして、もとの通り立て直したいと考えていましたが、モアイを動かすための機械もそれを購入するための資金もありませんでした。テクノロジーの発達した現代といえども、モアイを動かすのは簡単ではないのです……。
四国のクレーン・メーカーがモアイ立て直しに名のり出た
2台目のクレーンの寄贈式典(右:イースター島知事カロリーナ・ホトス氏、左:タダノ社長 多田野宏一氏)
 そんなときイースター島を日本のテレビ番組(『世界ふしぎ発見!』)制作スタッフが訪れました。取材を受けたセルジオ・ラプ知事は制作スタッフに、倒れているモアイを立て直したいが、自分たちの力だけではどうにもならないと悩みを伝えました。すると、テレビの制作スタッフは日本の視聴者に知事の気持ちを伝えましょうと請け負ってくれました。じっさい番組中でセルジオ・ラプ氏より“日本の皆さんへ”と題したメッセージが流れ、「クレーンがあれば倒れたモアイ像を起こせるのに」と伝えられました。
 これが思わぬ反響を呼ぶことになりました。香川県に本社を置くクレーン・メーカーのタダノの社員が番組を見て、自社のクレーンを使ってモアイ像を立て直すプロジェクトを行うことを決めたのです。1988年にテレビ番組をきっかけにはじまったこのプロジェクトは、さまざまな困難にぶつかりながら、じつに7年の時をかけて完成します。アフ・トンガリキの15体のモアイ像は今見る姿に立て直されました。かかった費用は1億8,000万円。プロジェクトが終了した年に、奇しくも『ラパ・ニュイ国立公園』は世界遺産リストに登録されました。
 その後も、2006年にはタダノからイースター島へ2台目のクレーンが寄贈されるなど、両者の友好関係はつづいています。観光客を魅了する巨大なモアイ像を動かし、立て直したのは、四国の一企業とイースター島の友好の力だったのです。

(世界遺産検定事務局 大澤暁)

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ラパ・ニュイ国立公園
(中南米・カリブ海地域/チリ共和国)
登録基準:(i) (iii) (v)
登録年:1995年登録
登録区分:文化遺産

今月の遺産検定「ラパ・ニュイ国立公園」

今月の遺産検定「ラパ・ニュイ国立公園」

『 街の “大改造” が生んだ「世紀末芸術」!? 』

“ウィーン”がいっぱい東京の美術館

『クリムト展』では過去最大規模のクリムト作品を展示(画像提供:朝日新聞社)
『ウィーン・モダン』では“芸術の都”ウィーンの芸術を網羅的に紹介
 最近、東京の街を歩いていると、何か気づくことがありませんか。花粉の飛ぶ量がだいぶ減ってきた? 令和改元セールをやっている? それは東京に限ったことではありませんね。正解は、「ウィーン」に関する展覧会がいくつもの美術館で開かれている、です。
 たとえば、上野の東京都美術館では『クリムト展 ウィーンと日本 1900』(7月10日まで)が先月末から始まりました。日本でも人気の高いグスタフ・クリムトの作品を過去最大規模に集めた展示会ということで注目を集めています。また、六本木の国立新美術館では『ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道』(8月5日まで)が開かれています。さらに、目黒美術館では『世紀末ウィーンのグラフィック』が開催中です。今年はオーストリアと日本が正式に外交を開始してから150周年という節目の年なので、このようにウィーンに関連する展覧会が目白押しなのです。
 では150年前、すなわち1869年のウィーンはどんな状況にあったでしょうか。じつは街の“大改造”のまっただなかにありました。街の中心部に古い城壁を取り壊しリンクシュトラーセと呼ばれる環状道路が敷設され、その沿道にネオ・ルネサンス様式のウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)が完成したのがこの年です。1869年5月25日モーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』をこけら落としに幕開けました。その後もリンクシュトラーセには、市庁舎や国会議事堂、ブルク劇場、美術史博物館、自然史博物館などといった、現在でもウィーン観光の目玉となっている美しい建物が次々と建てられていきました。ウィーンが世界遺産に登録される際に、これらのリンクシュトラーセ沿いの建造物群は高い評価を受けます。150年前のウィーンは、現在私たちが見る姿へ生まれ変わろうとしていたのです。
1860年代リンクシュトラーセ建設中の様子

街の “大改造” が生んだ「世紀末芸術」!?

 話は東京の展覧会に戻ります。国立新美術館で開催されている『ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道』は、グスタフ・クリムトやエゴレ・シーレに代表されるウィーン19世紀末芸術を、近代化の流れのなかで紐解こうという新しい試みです。全4章で構成されたこの展覧会の第3章のテーマがリンクシュトラーセです。この観光名所と「世紀末芸術」とは深い関係があったといいます。展覧会を監修したウィーン・ミュージアムのウルズラ・シュトルク副館長は、リンクシュトラーセの誕生によって、ユダヤ人の自由な活動が促され、彼らが新たな芸術のパトロンになったことが重要だといいます。
「リンクシュトラーセには裕福なユダヤ人が土地を買ってそこに住みはじめました。彼らはウィーン工房(※世紀末芸術の流れの中で生まれた工芸工房)で買い物をするなど、新しいライフスタイルを取り入れました。彼らが世紀末に活躍した芸術家に資金を提供するパトロンとなったのです」
 リンクシュトラーセ沿いには宮廷歌劇場のような公共建築が建てられただけでなく、土地を個人投資家に販売することもしていました。壮麗な公共建築を建設するための資金は、ユダヤ人をはじめとする個人投資家に残りの土地を売ることで得られていたのです。
この結果、裕福なユダヤ人はリンクシュトラーセ沿いに住みはじめました。もともとウィーンのユダヤ人は居住や職業選択などの面で厳しい制約を受けていましたが、リンクシュトラーセの誕生によって自由な活動が促されたのです。そして、新しい芸術のパトロンとなっていきました。じっさいクリムトにはユダヤ人のパトロンが何人もついていました。
このように社会と文化は密接にからみあいながら動いています。世界遺産を学ぶ際に、「リンクシュトラーセ」「グスタフ・クリムト」「ベルヴェデーレ宮殿」……とキーワードをただ覚えるだけでなく、それぞれの関連について考えたり調べたりすることで、より一層深く学ぶことができるので、おすすめです。
『ウィーン・モダン』は近代化の流れから「世紀末芸術」を紐解く試み
グスタフ・クリムト「エミーリエ・フレーゲの肖像」

(世界遺産検定事務局 大澤暁)

『ウィーンの歴史地区』に関する
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ウィーンの歴史地区(ヨーロッパ・北米/オーストリア共和国)
登録基準:(ii) (iv) (vi)
登録年:2001年登録
登録区分:文化遺産

※東京都美術館では現在、特別展『クリムト展 ウィーンと日本 1900』を実施しています。詳しくはコチラ
※国立新美術館では『日本・オーストリア外交樹立150周年記念 ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道』を実施しています。詳しくはコチラ


『日本とマチュ・ピチュ“知られざる絆” 』

世界初!マチュ・ピチュの友好都市は日本の村だった

マチュ・ピチュの遺跡には年間150万人もの人が訪れる
友好都市協定締結のセレモニーの様子(左:大玉村 押山村長、右:マチュピチュ村 ガヨソ元村長※2019年4月現在マチュピチュ村村長はダルウィン氏)
 今回は年間150万人もの観光客が訪れる人気の世界遺産『マチュ・ピチュ』を取り上げます。テーマは「日本とマチュ・ピチュを結ぶ絆」。そういうと、いきなり頭にクエスチョン・マークが浮かんだ人もいるかもしれません。マチュ・ピチュといえば日本から1万5000キロ離れた南米大陸ペルーの、標高2400メートル以上の山に築かれた15世紀頃のインカ帝国の遺跡です。そんなマチュ・ピチュと日本がどんな絆によって結ばれているんだろう、本当にあるのだろうか? そう思うのも無理はありません。でもそれは本当です。
 2015年にマチュピチュ村(※行政村としては「マチュピチュ村」と表記)が初めて友好都市協定を結びました。相手は人口1万人に満たない日本の小さな村、福島県大玉村でした。世界的に知名度の高いマチュピチュ村には友好都市協定の話が数多く持ち込まれていたといいます。一方で大玉村は世界的にはまったくの無名な村。なぜマチュピチュ村は大玉村を相手に選んだのか? このニュースが流れたとき多くの人が疑問に思ったでしょう。じつはここに日本とマチュ・ピチュを結ぶ絆のルーツが隠されています。
マチュ・ピチュを「発見」したハイラム・ビンガム

マチュ・ピチュに引き寄せられた二人-ハイラム・ビンガムと野内与吉

 話はいっきに1900年代初頭にさかのぼります。マチュ・ピチュは映画「インディ・ジョーンズ」の主人公のモデルとなったといわれるアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムによって1911年偶然「発見」されます。インカ帝国最後の皇帝アタワルパがスペイン人の征服者ピサロによって1533年に処刑され、インカ帝国が終焉をむかえた後、マチュ・ピチュは山中に放棄され忘れ去られていました。インカ帝国時代の遺跡の多くは、スペイン人によって破壊されていたので、マチュ・ピチュのように人知れず残されている遺跡は貴重でした。ハイラム・ビンガムの発見後すぐに大がかりな調査がはじまり、マチュ・ピチュの遺跡には一躍注目が集まります。
ペルーへわたった野内与吉とその家族(画像提供:野内与吉資料館)
 マチュ・ピチュに熱い視線が注がれはじめていたそんな時代、ハイラム・ビンガムと同じように何かに引き寄せられるようにして偶然この地にたどりついた日本人がいました。福島県大玉村出身の野内与吉です。
野内は1917年に日本からの移民団の一員としてペルーにわたりました。1920年代にペルーの古都クスコからマチュ・ピチュをつなぐ鉄道の線路拡大工事に関わり、マチュ・ピチュ遺跡のある麓の集落(現在のマチュピチュ村)に定住します。その時、野内はまだ山の上にある遺跡の存在は知らなかったといいます。当時のマチュピチュ村は住む人のほとんどいない未開拓の集落でした。野内は木々を切り拓き土地を整備し、川から水をひき畑をつくり、ほとんどゼロからマチュピチュ村を築いていきました。
ハイラム・ビンガムによる「発見」直後1912年のマチュ・ピチュの様子
1930年代のマチュピチュ村、奥の建物が「ホテル・ノウチ」(画像提供:野内与吉資料館)
現在のマチュピチュ村(画像提供:野内与吉資料館)
 1935年に野内はマチュピチュ村で初となるホテルをつくります。「ホテル・ノウチ」という木造建築ホテルです。今では多くの宿泊施設が立ち並び、観光業で盛えるマチュピチュ村にはじめてホテルを作ったのは日本人だったのです。「ホテル・ノウチ」が開業した当時こんな場所に宿泊施設をつくるなんて信じられないと村人たちは語ったといいます。年間150万人もの人が訪れる今のマチュ・ピチュの姿を当時は誰も予想していなかったのでしょう。
 「ホテル・ノウチ」にはマチュ・ピチュ遺跡の調査をおこなう多くの学者が宿泊しました。ハイラム・ビンガムがここに泊まったという記録はありませんが、著名なアンデス古代文明の研究者・天野芳太郎などが逗留した記録が残っています。野内はマチュ・ピチュ遺跡を調査する学者たちのガイドを務めました。彼はスペイン語のほか、インカ帝国の公用語だったケチュア語、さらには英語にも通じており、有能なガイドだったといいます。マチュ・ピチュ遺跡の学術調査の黎明期、学者たちを影で支えたのが野内与吉だったといえるかもしれません。
 野内与吉はその後、村長も務め、マチュピチュ村の発展に貢献します。これらの業績が評価され、マチュピチュ村は友好都市協定を野内与吉の故郷である福島県大玉村と結ぶに至ったのです。大玉村は「友好都市交流ツアー」と題し、若者を中心とした訪問団をマチュ・ピチュに送る事業をおこなっています。戦前にペルーへ渡った野内が築いた日本とマチュ・ピチュを結ぶ絆は今なお深められているのです。
戦後の野内与吉(画像提供:野内与吉資料館)
マチュ・ピチュの遺産をみてまわる大玉村の若者
昨年の「友好都市交流ツアー」には4人の中学生が参加した
日本のNGO(※)によるマチュ・ピチュの子どもたちへの支援も行われている(画像提供:野内与吉資料館)
※NGO日本マチュピチュ協会:野内与吉の孫である野内セサル良郎氏を中心に活動。マチュピチュ村への学用品寄付、ペルー文化の紹介などをおこなっている。

(世界遺産検定事務局 大澤暁)

『マチュ・ピチュ』に関する
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マチュ・ピチュ(ペルー共和国)
登録基準:(i) (iii) (vii) (ix)
登録年:1983年登録
登録区分:複合遺産

今月の遺産検定「マチュ・ピチュ」
今月の遺産検定「マチュ・ピチュ」

JICA横浜海外移住資料館での企画展は終了致しました。

【海外移住資料館】ペルー日本人移民120周年記念企画展示「マチュピチュ村を拓いた男 野内与吉とペルー日本人移民の歴史」が開催中。3月2日(土)~5月26日(日)まで。